新年の勉強方針

はじめに

皆さま、あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

災害と事故での幕開けとなった2024年。色々と思うことはあります。しかし、そのことにつられてペースが乱されてしまっては、元も子もない気がします。

ですので、そういった世界の諸々に対して心を留めつつ、自分のペースを維持して書いていこうと思います。

改めてどうぞよろしくお願いいたします。

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さて、今回は年明けらしく、2024年の勉強方針について書こうと思う。

関心が揺らいだときやモチベーションが下がったときに、いつでも戻ってこられるアンカーとして、是非とも記録しておきたいと思ったからだ。

現段階では、以下のような構成を横断的に取り組もうと考えている。

哲学関連の勉強

1.18~20世紀におけるドイツ・フランス哲学

近現代哲学への関心はここ数年あまり変わっていない。それまでも入門書レベルだが、カント、マルクス、ニーチェ、ハイデガー、フーコーなどを学んできた。

そんな中、2020年に『全体性と無限』の新訳(藤岡訳)を読んだのをきっかけに、俄然レヴィナスを勉強するようになった。そしていまも主要な関心であり続けている。

レヴィナスを勉強し始めたのは、もともと他者論に興味があり、自己と他者の関係を哲学的に考えたかったからだ。

勉強していくうちに、レヴィナスの哲学は多種多様な領域(政治、社会、教育、医療、看護、福祉、セクシュアリティなど)へと開かれた、懐の深い思想であるとわかってきた[1]。

自分はその他領域への開かれが重要だと思うわけだが、読み手によってはその文体の異様さ(その異様さから"レヴィナス語"と揶揄される)からどうにでも読めてしまうと感じる人もいるだろう。

たしかにそういう節はある。レヴィナスの文体は多くの研究者が指摘するとおり、かなり異様である。そして、彼自身が概念を統一的に用いていないゆえに、いかようにでも解釈可能な余地を残してしまっている。

内田はこの異様さ・難解さはタルムードの伝統に基づくレヴィナスの戦略であるとして肯定的に評価する[2]が、果たしてどうなのだろうか。

少なくともいえるのは、 レヴィナスのテキストには、字面をまともに追って理屈で理解しようとする読者の態度を失効させる気配がある、ということである。いわば「読むな、感じろ。」である。


そんなレヴィナスのテキストに有効性があるのだとすれば、一体いかなる点に求められるだろうか。

デカルトに始まる近代哲学が標準的主体とするコギトは、理性的で健康的な白人の成人男性を無自覚にモデルとしている[3]。21世紀的なグローバル社会において、白人男性に限定された主体の言説はあくまでひとつの立場にすぎない。

レヴィナスは〈顔〉という独特な概念を用いて、他者の他者性を強調することで、西洋哲学が自明視してきた自我の主体性、能動性、自由意志を相対化する。これは21世紀的な諸々の課題を考えるうえで、ひとつの重要な思想的契機だと思われる。主体の相対化によって「誰が」行為主体なのかが問われるようになるからだ。

「どこの、誰が、語るのか?」 レヴィナスの哲学が主体の相対化を哲学にもたらすことによって、人種、ジェンダー、社会的身分、経済状況などのいわゆるインターセクショナリティ[4]を踏まえての言説が可能となる。その意味で、レヴィナスの哲学は21世紀を考えるひとつの重要な思想的拠点になるのではないだろうか。


レヴィナスの哲学は現在と未来をつくる可能性をもつと同時に、過去の哲学から多大に影響を受けているのも事実である。

特にフッサールハイデガーからの影響は甚大である。

フッサールからは直接経験を重視する「現象学」を吸収し、ハイデガーからは「存在論」を吸収した。このように、フランスの代表的哲学者がドイツ哲学に多分に負っているという事実を鑑みれば、レヴィナスの思想的基盤にある哲学者たちを学ばないわけにはいかないと思った[5]。

カント、ヘーゲル、フッサール、ハイデガー、ジャン・ヴァール、サルトル、メルロ=ポンティ、ポール・リクール、ナンシーなどを幅広く、ときどきの関心に応じて勉強していきたい。


2.精神分析

以前より関心があったものの、1を中心にしたかったこともあって後手後手になっていた領域である。

精神分析は、西洋哲学全体が重視した「合理的主体」を解体する可能性をもっていると思う。その意味にかぎっていえば、1と2は対立関係にあるといえるだろう。

主要な勉強方針に組み込もうと思ったきっかけは、ボーヴォワールクリステヴァを読んだことである。彼女たちはフェミニズムの代表的論者としていまでも取り上げられる。そんな彼女たちはどうやら精神分析(への批判)を重視しているらしい、というのが最近わかってきた。

フェミニズムが精神分析をひとつの拠点とする理由は何なのか、と少し考えた。思うにそれは、精神分析で扱う性愛(セクシュアリティ)の問題がつねに男性中心で展開されているからだと思う。

彼女たちは、フロイトやラカンの性理論は男根(ファルス)中心主義であると批判する。女性性は男性器の「欠如」として、消極的にしか定義されていない、と。

とはいえ、精神分析は主体を無性的なものとしてではなく、常に性的に規定された存在であると証明しており、女性性を主題的に扱うための理論的フレームワークを一応揃えているというのも、参照の根拠になっているのではないだろうか(すみません、よくわかっていません)。

いずれにせよ、精神分析は以前から強く関心を寄せていたし、いま読んでいる分野に対しても何らかの形で応用できる気がしているので、今年の方針に加えてみようと思う。

3.ケアの倫理

ケアの倫理はもともと哲学の系譜ではなく、心理学者のギリガンに起源をもつわけだが、学問における男性中心主義に対する批判的視座を与えるとして多様な領域にその影響は及んでいる。つまり、ケアの倫理は、精神分析と同様に伝統的な哲学を相対化する可能性を持っている。

短絡的だが、ケアの倫理は、後述する社会福祉士にもつながるように思われる。福祉の実践的態度が、ケアの倫理からどれほど汲み取れるかはわからないが、時間の許す限り取り組もうと思う。

社会福祉士の勉強

社会福祉士の資格も取得したいと考えている。

受験資格を得るためには、一般の四年生大学を卒業している場合、少なくとも1年間は養成機関に通ってカリキュラムを修了する必要がある。つまり、通信制大学に入学する必要があるのだ。

学費、時間、そして、なによりも気力が要請される。哲学の勉強と並行しつつ、社会福祉士の勉強が果たしてできるのかと問われると、正直厳しい感はある。どちらかに絞る必要があるだろう。

だが、いまのところ、自分の関心は大きく哲学に傾いている。この志向を中断して切り替えるというのは、経験上、両方が中途半端になって良い結果にはつながりにくい。

なので、ひとまず3月までは哲学を一生懸命やってみる。そして、4月の段階で哲学を続けるかどうかを考えなおす。その結果、やはり哲学だと思ったら哲学を続ける。そうでなければ、資格取得の準備に本腰を入れる。



脚注

[1] レヴィナス協会編『レヴィナス読本』を参照。多種多様な学問領域にレヴィナスの哲学が展開されているのを感じられるだろう。
[2] 内田樹『レヴィナス 愛の現象学』(文春文庫)を参照。
[3] 村上靖彦『傷の哲学  レヴィナス』(河出書房新社)を参照。
[4] 「インターセクショナリティ」はブラック・フェミニズムの文脈から生まれた、主体のアイデンティティにまつわる概念である。本概念の詳細については、コリンズ『インターセクショナリティ』(人文書院)を参照。
[5] レヴィナス『実存の発見―フッサールとハイデッガーと共に』の訳者あとがきを参照。フランス哲学がドイツ哲学から多大な影響を受けて形成されていると述べられている。実際、レヴィナスがフランスに紹介したフッサールの現象学からサルトルは影響を受けていると言われている。


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