2PierreLapace2

私と私の環境についての考察。

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最近の記事

本質的興味、人生、恋愛

 博士後期課程の入試で、「本質的な興味」は何かと聞かれ、少し動揺した。そんなものはなかったのだ。研究者にとっては重要なのかもしれない。ただこれは、過去に返答を拒絶した問いだった。  何のために生きるのか。本当にこの人ではないといけないのか。こういう面倒な命題をひたすら考え続けた結果、答える必要がないと思った。本質的興味は同じようなものに感じる。  何のために生きるのかという問いは、自分の人生を単純化させている気がする。夢を軸に考えると人生はとても分かりやすい。子供のころからの

    • 有意義

       1ヶ月に1回くらいの頻度で、1日何もしない日がある。寝転んだまま、何も口にせず、気付けば夕方という日がある。場合によっては、それが2日くらい続く。  その後の精神状態はだいたい同じで、何も成し遂げていない自分、やらなければならないこともできない自分、有意義に過ごせなかった自分。それらに対する罪悪感で満たされる。  他人のそういう生活を聞かされても、まあ1日2日くらいゆっくりしてもいいんじゃないかと思う。だが、自分がそういう時間を過ごすとそうにはいかない。  有意義に生きるこ

      • 何を目指して文章を書くか。

         興味ない奴の興味ない話を聞くほど、世間は優しくない。それを自覚しているから、最近の自分の文章を人に見せられなくなっている。  おそらく昔と比べ、どんどん文章が下手になっている。下手というか、魅力のないことばかり書いている。  小学生の頃、担任が私の文章をよく学級新聞に載せてくれた。それを見た友達の保護者から褒められたりした。図に乗った。  中学でも、高校でも、感想文が学年の新聞に載ったりして、同級生から驚きの声を聞いたりした。図に乗った。 大学のはじめに書いた文章が、全国紙

        • 要にして簡(2024/02/06)

            要にして簡。わが恩師はそう評した。なんのことはない。私のLINEについて言っているのだ。個人的にLINEは必要最低限の情報で送りたい。手紙、メール、LINE。文章による情報伝達は高速かつ簡素の方向に進んできた。というのに、一部の人間はそこに感情や礼儀を求める。ごく一部のような気がするが、最近の若者は句点をつけると怒っているという感情を読み取る。いわゆるマルハラというらしい。丸の有無で感情を読み取る。  そこまででなくても、絵文字や関西弁などをつけるのは多くの人がやっている

        本質的興味、人生、恋愛

          スポーツと公平性(2024/02/04)

           トランスジェンダーの水泳選手が女性に性別以降後に米水泳界を席巻したという記事を見た。こういう話を聞くと、トランスジェンダーが女子スポーツで良い結果を出すなんて許せないと思う人間もいる。しかし、トランスジェンダーでなくても、陸上競技では、テストステロン値が高いという理由で女子競技への出場を制限されたケースはいくつもある。  競技の公平性を保つためらしい。確かに肉体的な性差は存在し、特に陸上や水泳などの原始的なスポーツでは男女で分けるのは公平性のために合理的だと思う。しかしこの

          スポーツと公平性(2024/02/04)

          挨拶運動という悪しき風習について

           日本の学校では、朝、生徒や教師が校門近くに立って、登校してくる生徒に対して挨拶をするという風習がある。今現在も無くなってはいないらしい。  中学生の頃、私は生徒会役員をしたが、そのときには、生徒から生徒会の活動として挨拶運動をしようという話が出たように記憶している。もちろん私は待ち構えて挨拶する側なので、学校に早めに行かなければならないが、やりたくなかったので毎回挨拶運動が終わる頃に登校していた。当時は言語化出来なかったが、挨拶運動はやるべきではないと思うには理由があった。

          挨拶運動という悪しき風習について

           言葉の影響によるコミュニケーションの難解さについて

           言葉を話すとき、それは事実を伝えるだけではなく、相手に対して何らかの影響を持つ。例えば、隣にいる人に向かって「うるさい」と言うとき、あなたがうるさいという事実を言っているだけではない。そこには静かにしろという命令が含まれる。言語学でいうところの発話内行為である。この場合、相手が受ける影響は明確である。  ではふと「お腹減った」と言った場合はどうか。これは事実を言っただけかもしれない。しかし、例えば隣にいる人がチョコレートをくれるかもしれない。ご飯に誘われるかもしれない。これ

           言葉の影響によるコミュニケーションの難解さについて

          ソロキャンプとマルチ商法

           何年か前からソロキャンプが流行りだした。正直、あれは都会人の道楽である。ど田舎に一人で暮らしていると、わざわざ一人で外に出てテントを立てたりしない。人工物と人にまみれた人間が、それらから開放を求めてやるものだと思っている。一人になりたい時もある。  そうかと思えば、群れることを求めたりもする。大学の知り合いの知り合い2人ほどが、マルチ商法に引っかかった。どんな手口かというと、街中でナンパのように声をかけ、後日集まってみんなでスポーツをしたり、自己啓発セミナー的なものでグルー

          ソロキャンプとマルチ商法

           利己的利他

           善と偽善の違いはなにか。  相関があるか分からないが、自己肯定感の低い人ほど「善=自己犠牲」という等式を導き出しやすい気がする。  誰かのために行動していても、それが自分の利益を含んでいると偽善だと判断してしまう。例えば、多額の募金をした芸能人が売名行為だと叩かれたりする。売名は利己的、募金は利他的である。一般人にとっては多額でも芸能人にとってはそれほど大きなお金ではない。それなのに募金して善人扱いされる。これが許せない。非常に不健康な考えである。さらに不健康なことに、そう

           利己的利他

           社会的動物

           知人のいない街に越してきた。大学院と家の往復。大学生のときに比べ、急に人間関係が減った。端的に心理状態を言い表すと、「寂しい」だ。友人やら恋人でも作ればいい。今の時代、スマホがあればすぐに出会える。けれど、求めているのはそういう個人的関係ではないという確信がある。  私は群れない人間だった。しかし、驚くべきことに、今私は群れることを欲している。  そもそも、集団ヘの所属は、個人的関係のネットワーク的拡がりによって形成されると思ってきた。だから、私は群れることを求めているので

           社会的動物

          結局人間関係無理しなくても良いのかもしれない

           一応大学生活が終わった。色々な種類の人間関係を築いてきた。たいてい上手くいった(と思う)が、未だに苦手なものがある。  新参者として、既に固まりきった人間関係に飛び込むときだ。入る前から自分は異物扱い。自分がいないメンバーで調和が取れているのだから、当たり前だといえば当たり前である。特に、何かをやり遂げて結束が固くなったかつ、そんなに外交的なメンバーが多くないコミュニティにその性質が表れやすい気がする。  大学生活、そのような人間関係に飛び込むことが何度かあった。私自身警戒

          結局人間関係無理しなくても良いのかもしれない

          人間は自由に生きれるほど賢いか

           インターネットの普及により、理論上色々な情報に自由にアクセスできるようになった。フリーランスという働き方によって、会社に縛られなくともお金を稼げるようになった。世話焼きおじさん世話焼きおばさんの消失とともに、自由恋愛からの恋愛結婚という方が一般的になっている。  世界は自由な方ヘ歩みを進めている。そう思っていた。しかし、果たしてそうだろうか。  インターネットやSNSは、自由に情報を集めたり、色々な考えを知れるという印象だった。だが、フィルターバブルとかエコーチャンバー現象

          人間は自由に生きれるほど賢いか

          教育現場における化粧

           教育現場では、ながらく生徒が化粧することは禁止されていた。私は、化粧をする自由は学校においても与えられるべきだと思っている。もちろんこれは自由であり選択肢であるので、誰もがしなければならないといことではない。だが、それを選択するのは、生徒個人であるべきだ。そうはいっても、この問題には、いくつもの論点があるように思われる。とにかくあげられるだけあげてみようと思う。(なお、ここでの学校は主に中学高校を想定している)   1.社会ではマナーであるのに、学校では禁止という矛盾

          教育現場における化粧

          綺麗な言葉の副作用「期待」

           嫌いな言葉がある。期待。それ自体聞こえの良い言葉。  期待されるのは悪くない。むしろ気持ちが良い。期待がモチベーションや自信に繋がることもある。  自分が期待するというのも、かなりプラスの感情だ。ある種の信頼と言っても良い。期待は相手への注目と応援を表せる。  だが、相手が期待に反して失敗したとき、あなたはどんな反応を見せているだろうか。  ため息をついたり残念だと言ったりしたとき、期待は暴力的な言葉になる。期待と期待外れをセットにしたとき、期待が表すのは、自分の期待どおり

          綺麗な言葉の副作用「期待」

          年功序列が既得権益になっている

           昔、知人と京都に行ったとき、ぎゅう詰めのバスに乗った。身動きが取れないくらいだったが、バスが停まるたび、人はどんどん入ってくる。そんなとき、優先座席だけ空いていた。真面目そうなお兄さんは、座ればもう少しスペースが空くだろうに、頑なに座らない。私はすきを見て、連れと一緒に優先座席に座った。  2、3駅行ったところで、5人くらいの観光客らしきジジババが乗ってきた。割と筋肉隆々だが、60代くらいだろうか、1人のジジが、ぎゅう詰めの中、人を押しのけ、空いていた優先座席に腰を下ろした

          年功序列が既得権益になっている

          大切な人を失ったあなたへ

           大事なことを話してくれてありがとう。大切な人を失ったときの辛さはよくわかります。  あなたのことですから、自分に落ち度があったと苦しんでいるんじゃないですか。でもたいていの場合、人間関係で一方が悪いなんてことはありません。刀とさやみたいなものです。刀がさやに納まらないのは、さやが悪いわけでも、刀が悪いわけでもない。ただ合わないだけ。  すべては関係性の問題なんです。不満が言えないのも、自分の行動が相手にとって非常識だったのも、傷つける結果になったのも。お互い違う人間なのだか

          大切な人を失ったあなたへ