秀抜な江戸の写生図譜でみる日本人と魚の歴史(『美し、をかし、和名由来の江戸魚図鑑』序文)
江戸の魚類図譜
海洋国で生きる私たちにとって、古くから魚は身近な存在だった。日本人は世界でも類をみない魚食民族だといわれている。例えば、鮨種として人気のマグロ。マグロ漁が始まったのは、縄文、弥生時代だと推測されている。平安時代の歌人で有名な紫式部や和泉式部はイワシが好物だったという。当時イワシは卑しい魚とされ、宮中ではその名前を呼ぶのさえ避けられていたが、人目を忍んで食べていたとか。今日でも生後100日前後の生児のお祝いの儀式「お食い初め」では、尾頭付きの魚を用意する。土用の丑の日には店頭にウナギが並ぶ。魚への愛着は現代でも変わらない。さて、日本人が本草学の視点から魚の探求を始めたのは江戸時代からである。魚類の図譜が初めて登場したのは江戸中期。1731年、神田玄泉によって日本で最初の魚介図説『日東魚譜』が編纂され、約400種の水産動物と製品が記された。さらに本草学をもとに始まった森羅万象を追求する日本の博物学熱は高まり、美術作品のような美しさを併せ持つ図譜も登場する。その代表的なものに、高松藩の5代藩主である松平頼恭(1711~1771 年)が編纂した『衆鱗図』がある。『衆鱗図』は彩色が施され、金銀の箔で光沢を表したり、切り紙細工で立体感を表現したり、その技巧が光る図譜となっている。制作に関わったのは本草家、文芸家、画家、発明家などとして知られる平賀源内(1728~1779年)だと考えられている。江戸後期になると、江戸時代の代表的な博物画家といわれる毛利梅園(1798~1851年)によって『梅園魚譜』と『梅園魚品図正』が編纂される。毛利梅園は写生図譜を多く手がけ、植物や鳥類、菌類などの図譜も制作した。これらは総称して「梅園画譜」と呼ばれている。写生にこだわり、繊細な筆致で描かれた毛利梅園の図譜は現代でも定評がある。本書では、毛利梅園が手がけた『梅園魚譜』と『梅園魚品図正』のなかから94種の魚を厳選して紹介する。
季節でみる魚と和名の由来
日本の文献に初めて魚の名前が登場したのはいつ頃か。それは、現存する最古の歴史書『古事記』(712年)まで遡る。『古事記』には 「栲繩の千尋繩打ち延へ釣らせる海人が、大口の尾翼鱸(オハタスズキ)さわさわにひきよせあげて、柝竹のとをとをに、天の眞魚咋(アメノマナグヒ)献らむとまをしき」とあり、出雲の国つ神が天つ神に最高のご馳走としてスズキを使った魚料理を献上したと記されている。海に囲まれた日本では、魚は身近な生き物であると同時に主要な食料でもあった。このことは、日本人のなかに海と海の生き物からの恩恵を重んじる心を育んでいったのだろう。江戸時代の頃、熊野灘のある湾にマグロの大群が押し寄せたことで、付近の住人が飢饉から救われた。人々はマグロを「支毘大命神」として崇めて供養塔を建立したと いう記録がある。
古くから私たちは魚に親しみを持ち、観察し、その名前や姿を記してきた。本書では「その魚が日本で旬を迎える季節」という観点から、『梅園魚譜』と『梅園魚品図正』から厳選した94種の図譜を春、夏、秋、冬の章に分けて紹介する。また、魚の標準和名とその由来、地方名や古名、英名を記載している。魚の名前は外見、習性、また伝承などに由来するものが多い。例えば、外見が語源といわれる「サンマ」の名前は、体が細長いところから「狭真魚(サマナ)」が転訛したという説がある。
「イシダイ」は、頑丈な顎と歯で貝類などの硬い殻をも噛み砕いて食べる習性から「石をも噛み砕く歯を持つ魚」という意味で名付けられた。
「ハタハタ」は、日本海で雷が多い冬に海岸に打ち寄せることから雷神の古名「霹靂神(はたたかみ )」が遣わした魚という伝承から、この名が付けられたという。
和名の由来については諸説あり、研究者によって見解が異なる。また本書では割愛した名前や説もあるが、和名の由来とともに日本人の感性と魚にまつわる奥深い物語の一端を堪能していただけたら幸いである。
企画・アートディレクション:
田島一彦(たじま かずひこ)
1946年東京生まれ。1969年多摩美術大学デザイン科卒業後、資生堂宣伝部入社。2005年同社部長クリエイティブディレクターを経て独立、現在フリー。受賞歴:朝日広告賞、毎日広告賞、読売広告賞、フジサンケイ広告大賞、日経広告賞、電通賞、ACC賞、日本雑誌広告賞、ニューヨークフェスティバル等。
監修:
中江雅典(なかえ まさのり)
国立科学博物館動物研究部脊椎動物研究グループ・研究主幹、理学博士。専門は魚類の形態学。なぜこのように多様な形の魚類が存在するのか、その要因を明らかにしようと研究をしている。『 新 魚類解剖図鑑』(緑書房)、『顔の百科事典』、『魚類学の百科事典 』(ともに丸善出版)、『ぐんぐん頭のよい子に育つよみきかせ いきもののお話 25』(西東社)、『Fish Diversity of Japan: Evolution, Zoogeography, and Conservation』(Springer)などを分担執筆。
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