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あいかわらずの感受性 - 最近何をしたか 4/29-5/8

Crush!

最近Appleの新型iPad ProのCM、"Crush!"が不快だと話題になっていると知った。知る前に偶然Xのポストにて内容を知らずその動画を見ていた。最後に出るiPad Proの製品名や社名までは見ていなかったし、それに対して私はまったく不快な気持ちにはならなかった。どうみてもCGっぽい世界の話しだし、別にこの世の中ではどうでもいいことだからだ。それに製品や社名が出るまで見なくても言いたいことは分かるというのもあるだろう。そして話題となっているのを知り、もう一度最後までよく見た。そこで思ったのは実にAppleらしいCMだということ。

私はApple社について特別な思いなどはない。好きでもないし、どちらかというと嫌いな部分もある。それはAppleには歴史があるので、一概にはいえないということ、その中で今回のCMを見ても、Appleってそんなものでしょう、という昔からある印象のままだ。そして今回のCMに限ってたとして、通して最後まで見ても衝撃もなければ嫌悪感もなく、言いたいことは分かるという気持ちがあるだけ。よくある表現だし、なにがそんなに不快で衝撃なのだろうか。ある意味それは分かっている、私の感受性の欠如だろう。

さまざま

有名な実業家の堀江貴文氏は「ナイーブすぎだろ笑」とXにポストしたらしく、彼に似たいわけではないが、私の思いも似たようなものである。私は感受性が欠如していて、こころがきれいな人間でもない。そしてナイーブとは程遠い人間なのかもしれないな、といつも思っている。それは私がここに書いている詩にも表れているような気がしていて恥ずかしが、しょせんそれが私の限界だろう。そう思えば、そんなに敏感な人間がApple社の製品を好んで使っているという思いと、そんなものをにわかには信じられないという思いが交じる。

このCMを見てグロいなどと思う崇高な感受性は私にはない。私はいつも感受性の欠如を嘆いてはいるが、そんな感受性はいらない。例えばピアノやトランペット、カメラ、ビデオゲームという物へのリスペクトがないと言われているようだが、果たして破壊の後のストーリーを含むものと、リスペクトは同じステージで語られるべきものだろうか。そしてどう見てもCGと思えるし、それが実物であったとしてもなにが問題なのだろう。表現を縛ってしまう。ほとんどの人には伝えたい意味は理解はされていると思う、だとするとどこかに不快感を感じてしまうのか。

web上のニュースを見てみると、私は存じないが様々な分野の有名クリエイターの方々が不満や不快感、それに対しての考察、そして失望を表明しているようだ。やはりクリエイターと言われる人は、実業家の堀江貴文氏とは違いナイーブなのか。それがその人たちの作品に対しての繊細さ=ナイーブというものにもつながるのだとすると興味深い。そしてAppleを傲慢だという人もいるが、そんなの随分前から分かっていたことで、Appleってそういう会社でしょ、と思う。Appleが清廉で謙虚な会社だとでも思っている人はいるのだろうか。実際はその対極でしょうと私の思う不思議か。

素晴らしさの裏側

Apple社の製品はApple IIの頃から知っているが、ウォズはウォズとしても、ジョブズ氏のよくも悪くも突出した部分は、よくも悪くもナイーブであり、ナイーブとは程遠い部分もあった。だからこそIBMのような巨人に飲み込まれず進んで行けたり、雇ったスカリーに追い出されてもNeXTを築いて帰ってこれたのかもしれない。私が好きなのはApple IIGSまでだが、Quadra 800を使っていたこともある。なぜかLisaには感じないが、確かにMac以降のApple製品はスマートさを感じる。Altoは別としても、スクラッチから理想を追求し価値や概念を生み出す素晴らしさだろう。その裏には切り捨てや、唯我独尊の貫きも必要だ。

そうしてみると私はMS-DOSを始めとするCUIや、Windows、AT互換機のようなツギハギのキメラチックな増築モンスターにもまた魅力を感じてしまう。それはスマートなApple社製品を素晴らしいと思っている人には非常に醜いものだろう。例えばOSは16bitからの呪縛を引きずり、ハードウェアもATバスに繋がる数え切れないほどのデバイスを一つ一つサポートする。その裏には不具合も山積みで惨憺たるものかもしれない。その醜さもまたパワーなのだと思っている。

そしてスマートや美しさの裏にはそれなりの理由があり、成し遂げるための犠牲は見せないものだ。そう考えると今回のCMに対する批判は、Apple社製品がスマートだと思う人々らしい反応だとも思えてしまう。醜いものには醜い理由があり、スマートなものの裏にも醜いものは存在しているのではないだろうか。

あいかわらずの感受性

鈍い私にはそう見えるという一面でしかないが、一方で私にナイーブな感受性があればどうなんだろうと思ってしまう。私がずっと思っている感受性の欠如は、もっと敏感な感受性があればいい、という裏返しでもある。だが、私は私なので無理だ。若い頃は今よりは多少感受性もあったろう、さまざまな経験をしてゆくうちに感受性は経験になり薄まる。逆に知識の積み重ねという経験や、さまざまなものへの出会いが感受性を呼ぶということもあるだろう。私にはそれが少ないのだろうか。やっぱり人間の問題だ。


光景の中だけ

こころを落ち着かせるものは。少しずつのかたまり。ひとつひとつ、ときにはふたつ、降ってきて湧き上がり空に舞う。音と音、風と風、光がないと見えないから、すべてそこに。足を踏み入れたと思えば出てきてしまう。甘くない綿菓子の中の、増幅される感情。聞こえる音、風、暖かくも冷たい場所。そのリズム、少しずつだけ。少しはやがて貯えられて。今度は間違わないように。


音は伝わる

音は伝わる。自分の五体が満足であれば、なんて考えても、なにも変わらないことは分かっている。そして楽しんでいる人をうらやむこともまた、なにもないこと。そんな頭の中のカオスは、さまざまな面での差に、もがき嘆いている自分ということになる。その声をなかったことにはできない。自分自身だから当たり前のこと。だけど抑えてもいる。なにがしあわせでなにが不幸なのだろう。それすらも分からず音は伝わる。


黒点

ぼくの太陽、それは世界に落ちた日だまり。穴が開くということはないが、とてもまぶしい場所。いつも開かれていることはないが、そこはさまざまな物語の記憶のとびら。やがてその日だまりは矮小化し、いつしか散ってしまう。そして舞ってしまう。その潔さ、わたしを作るものの影、日だまりに滲む点。散りゆく中に黒点はあり、ウォーターマークのように刻まれている。それを探す必要はないが、確かにそこにある。



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