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エッセイ | 得意なことってなかなか思いつかないっていう話。

 「得意なことはなんですか?」と聞かれても答えに窮することがある。


https://note.com/natu_summer/n/n9d2df806a212


 自分が得意だと思えばそれで良いかと言うとやはり違うかな?
 「英語が得意だ」と思っていても、イギリスやアメリカへ行ったら、胸を張って「英語が得意です😊!」なんて言えるはずもなく。、。、。「得意だ」ということだけでなく、「好きだ」というのも、躊躇してしまうだろうな。

 人との比較によって「得意」ということを決めようとすると、1番にならない限り、どこに行っても「得意だ!」とは言えなくなる。得意か否かということは、他人との比較では決まらないものなのかもしれない。

 そうだとすれば、他人との比較ではなく、自分自身の内部で決めるしかない。自分が「好きだ!」と思えるものがいくつかあったとして、その「いくつか」の中から「これがその中では1番うまくできる!」というのが「得意」ということなのかもしれない。


 …と奈津さんの過去記事を読みながら考えてみたが、「好き」と「得意」とが頭の中でごちゃごちゃしている。
 また、自分の内部だけで得意かどうかが決まるなら、別に他人に「私は○○が得意です」と主張したり、「あなたの得意なものは何ですか?」と質問したりすることに何の意味があるんだろう?


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PS 以下蛇足ながら…


 最近、過去記事を読むことが増えました。なんだろうな? 
 私がnoteを始めた頃のnoteが懐かしい。
 作品の質自体は今も当時も変わっていないんだけど、なんとなく同調圧力を感じるんですよね。

 私にとって、noteは基本的には、ふらっと来てふらっと立ち去る遊び場みたいなもので、「あれやれ!これやれ!」と言われるのはイヤなんですよ。
 …って誰から何か言われたわけでもないですけどね。なんとなくの空気感です。

 コメントをされたらコメントを返すということは、義務でも礼儀でもない。コメントを返してもらえることは当たり前のことではない。というよりむしろ「奇跡的なこと」だと思う。だって出会ったこともなければ、これからも会うことがないだろう人が大半なのだから。

 見ず知らずの人から意見を求められるなんて、リアルの世界ではまず殆んどないことだ。別に無視してもかまわないし、聞いても答える必要はない。
 リアルの世界では、「スキです」なんて言われることはないし、「スキです」とこちらも言うことはない。目と目を合わせることすらないことのほうが多い。

 無理せず、義務感を持たずに交流できるのがいいなぁ、なんてね。
 noteを始めた最初の頃は、右も左も分からないから、知らない人同士という感覚で、分け隔てなく公平・平等に接することができた。
 けれども、お互いの記事を読んだり、コメントを交わすうちに、それが当たり前のように思うと、落とし穴があるかもしれない。

 私はコメントをいただけば、時間の許す限り、返事をかえす。コメントに書かれた文章の意味が理解できたら、好き嫌いに関係なく。
 コメントは基本的にどなたでも一往復のみ。誰でも一緒。毎日コメントのやり取りをしているから特に仲が良いわけでもなく、頻度が少ないからといって、心の距離が遠いとは限らない。



 

 

 

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