経験則と自由意志とピンボール

現代社会の「仕事」という「仕事」はすべて「経験則を元にしたもの」だと思います。

芸術的な創作やエンターテイメントの世界が究極の「膨大な過去の記憶・経験則の発現」であるのと同じように(←どんな芸術もエンターテイメントも、なんの前提も経験もなく天啓のように無から生み出されることはなく、自分の経験した膨大な音楽や芸術やエンターテイメントに対する経験・体験から醸成されると僕は考えています)、社会生活を営む上での仕事やコミュニケーションも、必ず何らかの「経験則」を元に進められます(なんの脈絡もなく、またなんの経験則もなく、神がかり的なビジネスアイデアやコンテンツが突然生成されたり、全くなんの制約もなく傍若無人かのごとく振る舞えるビジネスが突如発生することはないことは、寧ろテクノロジーが爆発的に進化してAIなどが世の中を席巻しつつある現代であれば、昔よりも遥かに明確に理解できると思っています)。

そしてその「経験則」にはその経験の元となった原因というか起源というか・・・つまり「なぜそういう経験則を踏襲するのか?」という理由が必ずあります。

「文書にハンコを押す」という習慣も、元々は紀元前のメソポタミア文明まで遡る「偽書を防ぐ(見抜く)」ための手法の一つとして始まったものだと(←ネットではんこ屋さんのWebサイト解説記事からそう知りました)。
偽筆が出てくる→字を崩した「サイン」的なものに変わる
明治時代になって「文字が書けない者は代筆してもらってもよいが本人である証に実印を押すこと」という法律?ができて「偽書ではないことの証」として「ハンコ」が市民権を得た、とのことで、以来お役所がその「経験則」即ち「ハンコが押されている文書はそのハンコの持ち主が正式に作成した文書だと認められる」という社会的な了解のもと(もしかしたらその社会的な了解・慣習を強制的に作り出したのかもしれませんが、それはともかく)に「正式な文書にはハンコを押すべし」という習慣になったんだと。

一事が万事、こんな風に社会で通用している暗示的・明示的どちらのルールも「経験則」に基づいています。
なので、どんな立場、どんな仕事をしている場合でも「これらの経験則に制限を受けている」と意味での限りにおいては、「完全に自由意志で仕事を出来る」と言うことはないわけです。
(ここで言う自由意志とは、何でもかんでも自分の欲望が最優先でその欲望の従うままに好き放題という最近世間で曲解されて通用し始めてしまっている「自由」概念とは真逆の「社会的にごく基本的なルールの範囲内で自分の意志に従って良い」とされる自由で、その範囲内で自分が良い・正しいと考える選択肢を選択でき得るという意味での自由意志です)

僕のような「自営業」の仕事をしている立場の人間や、会社の経営者さん、士業のお仕事の方たちは、いわゆる「給料を会社や組織から受け取って働いている立場の人」と比べて「生活の糧を稼ぐために誰か他の人から指示や制約を受けることが少ない」ことから、所謂「サラリーマン」よりも自由意志で動ける(生活の糧と引き換えに誰かに明確に所属し従うという制約を受けなくて良いという意味で)、仕事のできる立場の人たちだとよく言われます(実際、僕自身も自分でそう思っていて、こういう仕事・・・つまり自営業的なお仕事・・・は、だからこそ魅力とやりがいがあると明確にそう思っています)。

けれども、そういう「自由意志で仕事を選べる、仕事ができる」立場の人が、本当に自由意志で仕事を選び、仕事をすることが出来るか?と言うと、二つの意味で「そうではない」と考えています。

一つは、冒頭に書いた意味。
完全に自分の価値観や良心・判断のみに従って仕事ができる訳ではありません。
自分の価値観や判断基準とは異なる社会的な習慣や暗黙・明示のルールがある場合に、それらに従わざるを得ない場面も多々あると言う点で、どんなに自由に動いているように見える仕事や職業でも、これらの制約・確執とのせめぎ合いがあります。
自分自身の行動(仕事の仕方や作業の手順)をすべて自分の価値判断でできている訳ではなく、自発的に社会的な慣習やルールに従うように軌道修正している、という点。

二つ目は、僕のような自営業でも「仕事相手、取引先がいわゆるサラリーマンだという場合が珍しくない」という点。
これは世の中の「仕事をしている人」のかなりの割合(いやもしかしたら大半)が、僕のような自営業的な立場ではなくて「所属している会社や組織の定めたルールの中でしか動けない(もし本人の価値判断と所属先の会社や組織のそれとが異なっていたら、自分の価値判断より会社組織の価値判断に優先的に従わざるを得ない)という意味での、サラリーマン」であるということに由来します。

つまり、少し引いた位置から見ると「自由意志で動いている(社会的な自由を享受できている)」ように見えている立場の人も、もう少し寄って個別具体的な動きを観てみると、当の本人は自由意志で動こうとしていても、仕事相手・取引相手の大半は「自由意志よりも慣習・ルールに従う」行動範疇・思考範疇であるが故に、場合によってはその「取引相手の行動範疇・思考範疇」に制約を受けます(・・・それが余りに受け入れがたい場合は取引相手・仕事相手を変える・現在の仕事や仕事相手を拒絶するという選択肢を持っているという点においては、彼らのように「相手が誰であろうと自分の自由意志で勝手に拒否はできない」立場の方に比べるといくらか自由ではありますが)。

というように、「自由意志で職業・仕事・取引相手を選べる立場の人間」が本当に自由気ままかというと全くそうではなく、少なくとも以上のような2点のために「制約」を受けているのが現実です。

ところで、「自由意志で動けている立場の人間」がこれらの制約を甘んじて受け入れ続けるとどうなるか?というと、これは明々白々で、「長い時間を経て、全く自由意志で動くことのできない立場・環境を自ら作り出してしまう」ことになります。
(ここは、例を挙げて詳細説明をし始めるとキリがない上に特定個人や特定の立場の方たちを取り上げなければならなくなるので省きます)

このため、僕の場合(←すべての自由意志で動けている的な立場の方が僕と同じ行動をするか?は確かではないので「僕の場合」と限定します)、こういう「社会的な慣習やルール」から受けている制約や制限、「取引先や仕事相手」から受ける制約や制限に受け入れられないものがある場合は、反発・提案・提示などいろいろな方法でそれらの制約や制限を解消しようと試みます。

例えば、ということで一つだけ例示すると、「ハンコ」
20年前僕の創業当時、請求書や領収書をPCで印刷するのに「ハンコの印影」をスキャナで取って請求書データなどに追加して「印影も含めてまるごと印刷」すると様々な方から「有印私文書偽造罪になる、ちゃんとハンコを押せ」と言われていろいろな制約を受けました・・・つまり印鑑の印刷のない書類を印刷してから、本物のハンコを朱肉で押印しろ、と言われ続けたものですが、2024年の今や請求書や納品書に「赤い(朱肉っぽい)色でハンコの印影を印刷する」なんてのは当たり前中の当たり前になっています。
ところが、ある支援機関では未だに「承諾書」「請求書」などにハンコを押して原本の紙をスキャナでスキャンしてPDFにしろ、という(僕の立場からは)全く意味のわからない指示・制約をいただいています。
非常に小さいことではありますが、それを甘受してしまっては、蟻の一穴でそこから「古い慣習やルール、暗黙の了解をすべて受け入れざるを得なくなる」・・・つまり全く自由意志で動くことのできない立場・環境を自ら作り出してしまうことになるので・・・2年前に猛反発をしました。
今でもこの制約(ホンモノのハンコで押してからスキャンしろ)は厳然と存在していますが、私は「印影も含めて請求書として印刷したもの」を「コレ本当にハンコを押してからスキャンしました」と言ってのけて提出しています(笑)・・・それでなんにも問題視されないので、今ではもう既成事実として押し通しています(笑)。

・・・というような例も一時が万事、です。

ただ、僕のような末端の一個人がどれだけ猛反発しようと、どれだけ既成事実を作ろうと、こういった「社会的な慣習」や「仕事相手の行動様式」はびくともしません。それでルールが変わるなどということも経験したことが有りません。
それでも、壁打ちテニスのように打ち続けては打ち返され、壁を崩せるわけもないのに打ち続ける・・・そんな、傍から見ると不毛なことのように見える反発を延々と繰り返すと・・・壁は崩れなくても、慣習はひとつも変えられなくても、反発している当の本人だけは別次元へ上がっていくことになる・・・

と、そんな事を考えているうちにふと、昔流行った「ピンボール」というゲーム機を思い出しました。
スマートボール、じゃなくてピンボール、です。

スマートボールは、外から打ち込まれてきたボール(案件)を、色んな経路の障害物にさんざん弾き返されながら、最後は落ちていきます。

ピンボールの、スマートボールと違うところは、唯一「跳ね返すためのピン(羽)」があること。
外から打ち込まれてきたボール(案件)は、散々障害物のあちらに当たりこちらに弾かれながらも、最後に落ちてくるところで「羽」の意志でもう一度障害物へ向かって打ち返されます。
ピンボールの、スマートボールと違う「面白さ」は、
1.ど真ん中どストレートでボール(案件)が来ちゃうと「羽」の届かない隙間を抜けてゲームが終了してしまうこと。
2.けれども、打ち返して打ち返して、ど真ん中どストレートに来ないように注意しながら打ち返せばゲームは続けられること。
3.打ち返し続けても、障害物が消えてなくなることは決してなく、いつまでも反発してボールがあっちこっちへ飛び回る
4.それでも打ち返し続けて延々と続けると、最後には「ゲームオーバー」になる(ゲームの機種・設計によって違うが、99,999,999点を超えて「Congratulations!」となって「上がり」になることもある)

実は、僕は一度だけこの「4」を経験したことがあるんですが、その体験談はさておき・・・コレ、実際の「古い慣習や制約に反発しながら仕事を続ける」様子によく似てるなあ、と思った次第。

ちなみに、ゲームのことはあまり詳しくないけれど、ピンボールのような機械式ゲームはその後テレビゲームに代わっていき、「打ち返す羽」も左右に固定ではなく、画面上を自由に移動しながら打ち返せるものが主流になり、それが3Dになったりといろいろな変化を遂げてきていますが、やっぱり最終的には「最後まで諦めずに打ち続ける」ことが、そもそもゲームの大前提・大原則となっている・・・という点も、現代社会での「自由意志で仕事をしている(ように見える人)」の「旧態然とした慣習などとの向き合い方」によく似ているなあとも思ってみたり。

ところで、一方でピンボールゲーム機で「障害物」となっている方の立場の人はどうか?といえば・・・そもそもゲーム(というある定められた世界)の中で、羽を使って打ち返してくるプレーヤーの行動をなんとか阻止しなければならないという使命の下、「来たボールはルールに従って跳ね返す」という役割を与えられている以上、そこに「場合によっては跳ね返さなくたっていいじゃん」みたいな臨機応変を求めるのは酷だろう、という某氏の感想も理解はできることを付記しておきたいと思います。

更に付記しておくと、解像度という観点でピンボールゲーム機を捉えた場合、
(1)一番近くに寄って解像度を高めると

  • 障害物には「ボール(案件)が来たらあらかじめ設定された反発力(経験則に基づくルール)で跳ね返す」事になっている

  • プレイヤー(羽)側は、障害物から跳ね返されたボールを(ロストしないために)必ず打ち返すということになっている

(2)ちょっと引いてみると

  • どちらも「ボールを跳ね返す」という行為としては同じことをしているだけ。

  • 「向かってきて当たったら跳ね返すが、来なければ跳ね返さないで黙ってるだけ」(障害物側)か、「ロストしないようにどんな時でも何らかの石を持って必ず打ち返す(打ち返さなければ必然的にロストする)」(プレイヤー・羽側)か、の違いだけに見える

(3)もっと引いてゲーム機全体という解像度で見ると

  • なにやら「区切られた箱(世界)の中」で喧々諤々やってるが、所詮ゲーム機の中でのこと

  • 隣には別のピンボール機があって別の設定値・ルールでゲームが行われている

  • なので、今のゲーム(今やってるピンボール機でのゲーム内容)が不満だったり、得点が上がらなければ、プレイヤーは隣のゲーム機に移ってゲームをやり直したって良いけれど、「障害物」側は何が何でもその「ゲーム機」の中にいなければならない

  • ナンならもう時代は「ピンボール」機ではなくなってスマホでリアル・バーチャルを行き来する時代になっているという時間軸を超えた解像度だってあるよね

というような次元の違いはあるんだよなあ・・・と思ったりしています。

とまあ、初投稿からして5,000文字以上にもなった上になにを言いたいのか良くわからない単なる随筆文みたいな言説になりましたが、これでおしまい。


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