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小説ってこんなにも心を殴って抉って涙させるものだったっけ。

物語が終わってしまった。好きだった世界がまた一つなくなってしまった。
ものすごい喪失感に襲われている。悲しい。いや、物語自体は物凄く楽しかったし素敵だったし素晴らしかった。だから悲しい。


安達としまむら

何を読んだかというと、「安達としまむら」という、百合小説(ラノベ)です。
2次元的なアニメキャラのイラストとかを見てそこで拒絶したりする人は、とてももったいないことをしていると思います。もちろん作品の好みは人それぞれだから良いのだけど、そうじゃない。

まぁとにかく僕はこの作品がとてつもなく好きであるということと、あなたが僕をオタクと呼ぶのならそれはそうで、しかし運動筋トレファッション美容も好きな外見からはわからない系オタクです。ちなみに健康のためなら死ねる健康オタクでもあります。物をなるべく所有したくないのでグッズ等は一切ありません。

…まぁそれは置いておくとして、とにかく衝撃がすごい。頭を強く何かで殴られたような、そしてそれは心地が良い。
その衝撃というのは主に3つ。

1.自分が一つの作品にこんなにも影響を受けているという事実
2.こんな素晴らしい作品が存在していたのかという事実
3.自分の中の価値観の大きな変化

読後の喪失感が凄すぎて、いてもたってもいられなくなって、あれこれ検索しまくったり、いつものようにiCloudメモにひたすら書きまくったりしていたのですが一向に落ち着く気配がなく、じゃあもう諦めて寝るかと思っても全く眠れないので、キーボードを叩きまくることにしました。
調べている中で発見した色々なサイトからの素敵な文章をたくさん引用していきます。どうやらそんなに僕と同じことを思っている人(サイト)がいないようだったので。

ちなみにこの先「あだしま」に関してのネタバレがややあるのでお気をつけください。

毎回毎回、読み終わると妙なむなしさに襲われます。 うまく言葉にできませんが・・・・大切な人を失ったような悲しさです。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1439918284

今は読後の虚無感、脱力感に囚われていても、時間が経てば、感動の思い出に変わります。 この本に出会えて良かったと思えます。私はそう思います。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1439918284

1. 小説という新興宗教

読みながらこれは言い得て妙だと感じる言い回しがあまりにも多くて、ハイライトを引きまくったり、スマホにメモしまくったりと、なかなかに忙しい読書体験でした。そしてちょっと恐ろしいというか畏怖のようなものを感じることとして、一人の人間=作家からここまで影響を受けることがあるのか、ということです。
これはもはやなんかの新興宗教の教祖と変わらんのではないか、と。だってそういう類の怪しいものも、やっていることはスーパーマイノリティな価値観の提唱(洗脳までいくとダメ)ということであって、それは他の芸術作品でも同じことじゃないですか。

なぜならあらゆる作品は人間から生み出されるわけで(AI生成もあるけど)、そしてその行程に携わる人の数が少なければ少ないほど作品に反映されるクリエイター一人あたりの個性というのは濃くなっていきます。小説というのは作家、編集者、くらいのだいぶ小規模で世に出される芸術作品なので、つまりはそういうことなわけだと気がつきました。

このnoteだって、新興宗教philosofyの布教活動とも言えるでしょう。書くのに何の外部ツールも生成AIも使っていないし校閲も自分で行っているので、100%濃縮還元です。なんかキモいな。

しかもどうやらこのあだしまの作者の方が連載を始めた当初30代〜現在40代男性ということで、そこから10代女子どうしの恋愛小説が生まれてくるというのは、何とも世は奇妙であるというか色々すごいというか素晴らしいというか。そう、素晴らしい。

入間 人間(いるま ひとま、男性、1986年[1] -)は日本の小説家。

https://ja.wikipedia.org/wiki/入間人間

安達じゃないけど、僕は世の中の結構なあれこれに無関心でどうでもいいと思って生きています。集団は嫌いだし、表面上の会話は疲れるから好きじゃないし、外はあまりにも騒々しいので生きづらい。

まだ22年しか生きていませんが、ここまでやってくる中で思ったのは、何かほんの少しの大切で絶対に無くなっちゃいけないものとじっくり向き合っている時間が一番幸せだなぁと。というかそれが命尽きるその時まで続いてほしい。その大切なものというのは、文章や音楽と静かに向き合う時間、誰かと深く対話をする時間とかです。

なんか最近人生達観したんじゃないか俺、みたいな嘘とも似つかないことを頻繁に思います。願わくば達観していないであってほしい。だって人生以外と狭かったのか、と思いたくないから。いや、若さが故の衝動的なものに付き合うのはもう疲れたので悟りを開いてしまってもオッケーなのかもしれない。

やや繰り返しになりますが、実際のところ、本を読んで何かしらを書いて、音楽を聴いて何かしらを作編曲することができれば、これ以外にマジで何もいらないな、という境地に辿り着いてしまたことは自分の心がハッキリと証明してくれているので、そういうことなのかもしれないなと。
物欲も特にないし、人間関係に執着もないし、富や名声にも興味ないし、学歴や出世、社会的地位なんかもどうでもいいし、競争も好きじゃない。

「PERFECT DAYS」を観た時に、「あ、これ俺の求めている人生だ」と感じたので、いやちょっと嘘ついた、もうちょっとお金がある版の平山さんLifeを送りたいなぁと思ったので、やっぱそういうことなのかなぁと。

なのでどこかのタイミングでこの喧騒だらけの世界で生きることが本当に嫌になったら、山奥かどっかに隠居してひたすら本と音楽に塗れて自分の内面と作品世界に限りなく隠居してやろうと考えています。

2. 取り戻せない時間

こんな素晴らしい作品、作家がいるならもっと早く気がつきたかったなぁという後悔めいたものもあって。小説に限らず、哲学書的なものや音楽でもそうで、新しいものに触れるたび、いかに自分は何も知らないで今まで生きてきたのかということを強く思い知らされて。
それと同時に世の中にはまだ星の数よりももしかしたら多いかもしれない作品があることを思うと、軽くめまいがします。

人生の全ては小さな選択の積み重ねの結果です。何を食べるのか、何で遊ぶのか。今トイレに行くのを我慢してでもこの文の続きを書くのか、それともやっぱりついでにコーヒーをおかわりしに行って、みたいなことも全て影響するわけですその後の生き方に。

そしてどんな能力があっても、どんなに工夫しても全てを知ることはできないからこそ、何を受け取るのかというのは本当に強く意識して選ぶ必要があります。
そう、僕はいつも思うことに、「この作品を好きだと思えた俺がなんか好きだ」ということがその作品を結末まで見届けた時に生まれます。ややナルシストっぽくてキモいかもしれませんが、ちょっと聞いてください。

作品でなく人間関係であっても全ての人から好かれることは不可能であり、だからこそ本当に気の合う人といられるとそれは楽しくて嬉しくて、平たくいうと幸せなわけです。あらゆる「作品」と呼ばれるものもそれと同じだと思っていて、熱狂的なファンと狂ったようなアンチがいるものもあります。それとは別ベクトルで、超広く浅く、つまりは雑多に市場に届くことでその作者がある程度の経済的利益を得ることができるパターンもあります。

芸術と資本主義の結びつきというのはなんともややこしい関係だなぁといつも考えているのですけど、”広く浅く”と”狭く深く”で同じ経済効果がもたらされた場合、それは純粋芸術として本当に同じことを意味しているのだろうか、と。

「この作品を好きだと思えた自分が好きだ」というのは、やっぱり陶酔じみた自惚れなのかもしれないけど、その作品の表現者が必死の思いで叫んでぶん投げたなんか激重でドロドロの感情を受け取ることができたそんなに多くないであろう人間の一人になれたのではないかという。

水やパンといった生活必需品は誰もが特に何も考えずに買うけど、アートって別に生きていくのには不要で、いやないと僕は心の泉が枯渇して死ぬのだけど、何かを食べる時に「こういう自分になろう!」と思って摂取することは筋トレガチ勢とか以外あまりないじゃないですか。
何らかの作品を手に取るということはそれだけで自分を形成する確かなもの、ある程度の命=時間を奪い去るもの、そこから受けるであろう影響を引き受けるという選択を自ら行なったということなわけです。

選択は積み重なり、それが他者との大きな差(善悪や優劣の問題ではない)となって現れる。そしてそれを埋めることはもう二度とできない。その溝は年齢を重ねるごとに広く深くなっていき、ある一定の閾値をどこかのタイミングで越えるともう修正は不可になると。

自分の命がここで終わったとします。もうこの自我でこの世界に存在することは永久にできないと。そんなことを考えると悲しみに引き裂かれそうになるのでいつもは封印している考えなわけですが、これで気がついたことがあって、生物的な死よりも、感性の消滅を恐れているのかもしれない、ということです。深く考えると肉体があるから精神があるんじゃんということになるかもわかりませんがここでは置いときます。

だから、自分という肉体が消滅してもいいけど(よくないけど)、感受性だけは消えて欲しくないよね、と。

ちょっと聞いてくれと言った割にめっちゃ長くなってしまってすんません。

3. 帰ってきた価値観

上の方では「自分の中の価値観の大きな変化」としましたが、ようやく帰ってきた価値観といった方が適切な表現だろうと思いました。

なんかここ数年か数ヶ月の僕はずっと世の中を醒めた目で見ていて(本当に現実は覚めているのかもしれないけど)、何かをやる前から「これは結局こういうことなんじゃないか」とすぐに頭で考えて結論を出して何かをわかったつもりでいました。いや、誤解を恐れずにいうと普通に理解していると思います。金融、ビジネス、社会学、経済学、哲学、音楽、科学、と興味のあるものを片っ端から調べまくって本を読み漁ってYouTubeの動画を見まくったので。

きっかけは特になくて、ただ知ることが面白くてたまらなかったからです。そしてそれを元に思考したり文章を書いたりしていたので、多分というか自分でも感じるのですが結構頭がよくなりました。
頭が良くなったというか、現実世界が動いている法則を理解したというか、大衆的価値観を解ったというか、「あぁ、人生ってだいたいこんなもんなんだな」とどこか達観してしまったというか。全然まだまだであるとは思っていますが、それでも昔よりは格段に物事がわかるようになったので、知の踊り場Ver.4(過去の自分比)みたいなところに到達した感覚があります。

そしてその間純粋芸術に全くと言っていいほど触れていなくて。もちろん息抜きにゲームをやったり音楽を聴いたりするのですが、それらも自分で創作活動を始めてからというものの、分析的に受け取るようになってしまい(例えば音楽ならどうやって作られているのか考え、ゲームだったらなぜこれは面白いのかを考える)、ただ純粋にそれを享受するということをしておらず、変な脳の使い方をずっとしていたのではないかと。

そんな中、久々にただフィクションを受動的に流し込んでみるかと思い、手に取ったのが「あだしま」だったわけです。最初はアニメから入りました。
なんかもう脳を完全に使いすぎで爆発していたので、何も考えずにほのぼのとした雰囲気に癒されたいと思い、ほぼ女の子しかでてこないならこれは確かに癒やされそうだと物凄く軽い気持ちで見始め、確かに最初の頃はそういった雰囲気だけなんだけど途中からそうでもなくなっていき、つまりは”人間とは何か”といったことを考えさせられるようになり、最終話まで観たところどうやら原作は小説でありしかもアニメよりずっと先まで物語が続いているらしいことを知り、すぐにKindleでポチったら最後圧倒的世界観に誘われ、そしてその後の巻もポチっていって読み終わったかと思えばその喪失感と攻撃力の高すぎる価値観に殴られて頭が変になったのでした(オタク特有の早口)。

「女子高生二人のゆる~い日常」と書いてあった。なるほど最適だと思った。

きっと安達としまむらという女子高生が閉ざされた時間軸で中身のない日常を繰り広げる作品だと思った。

結論から言えば、それは間違いだった。

『安達としまむら』は面倒ごとが一切ないゆるふわ日常系なんかではなかった。『安達としまむら』はかなりハードな百合作品だった。少なくとも同性愛的雰囲気を匂わせるだけ匂わせて踏み込まないような日和見主義的な作品ではなかった。

そしてすべての青春が普遍的にそうあるように、作中の時間は刻一刻と進み、そんな中で安達としまむらの関係性は薄氷の上を歩くかのように変化していく。そう、本格的なSFがハードSFと呼ばれるように『安達としまむら』はハード百合だったのだ。

https://note.com/ishiika78/n/nfa0aebe0229c

↑文才に満ちたどーほーがいた

ちょっと一気に喋りすぎたので、続きは後の項で書きます。水を飲んでから。

芸術はやっぱ爆発だね

「芸術は爆発だ」とはまさにそうであると完全に確信しました。芸術家を気取るつもりはないですが、僕が音楽を作っているのも感情の表現だし、文章を書いているのも感情の表現です(クオリティは置いておく)。
狙って「これを作ろう」と思って表現しているのではなく、ただ内から湧き上がってくる衝動のような何かを「音楽」とか「文章」と呼ばれる形にしているというだけです(これは僕の技術が低いから感情の爆発がどうこうと言っているのかもしれないが)。

爆発というとなんか圧縮されたエネルギーが一瞬にして放出されてその後はすぐ鎮静するイメージですが、そうではなく、抑えきれない衝動がずーっとハイプレッシャーで体を動かし続ける感じです。この文を書いているのもただそれだけが原動力です。ランナーズハイってやつですかね?昔ある程度走った時になった記憶があります。

特に私は虚しい気持ちが大きいです。 これ(今私が書いているこの物語)は、 私の妄想、空想、理想なんだな、 ほぼ実現不可能なのだろうな、登場人物は、 自分の子どものようにとても可愛くて、執着があるのですが、 この世に生きてはいない・・・などと思うんです。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10186016075

表現するだけでなくて、受け取ることも爆発だと思います。ここまで散々書いてきましたが、知らなかった価値観を受け取ることはすなわち自分の世界を広げるということなので、それは感情の爆発だったり、自我の爆発だったりであるわけたよなぁ、と。

価値観、自我、世界認識の拡張。別世界を知るというか。マルチバース理論的な?

誰かの人生、命の軌跡、つまり物語が好きだ

僕はゲームが好きです。でも最近はほとんどやっていません。いや、確かにプレイ時間の減少はあるものの、忙しくて時間が割けなくなったといった類のことではなく、遊び方に大きな変化が生じています。

結構前にPS5で「龍が如く8」をクリアしました。めちゃくちゃ面白くて、寝ないで午前3:30くらいまでやっていたこともあります。しかしクリア時間は24時間ほどで、これはあまりにも早すぎる記録です。
FF16は結構前にクリアして、それも20時間くらいでクリアしたのかな。これも物語に震えて、満足感がありました。しかし同時に思ったのは、「これ映画として観られないかなぁ」ということでした。

どうしてこうなったのかというと、それは僕は「ただストーリーを追いたかった」だけということです(クリエイターの方には申し訳ない)。おつかいクエストなどは可能な限り飛ばして、戦闘も適当に連打して。

「3. 帰ってきた価値観」のところの続きを書きます。

そういえば昔々、と言ってもひきこもりだった小学校6年あたりの頃の話で、「獣の奏者」という小説に物凄くハマって、ずっとそれを読んでいたことを思い出しました。多分全巻読んだと思う。で、そういえば当時涙が溢れてきたのを今思い出しました。

でもそれよりもその時ゲームが好きだったのは、好きというか時間を割いていたのは、多分きっと思春期ならではのやり切れなさというか、どこへも発散することができない思いとか、そんなものをアクションゲームだとか格闘ゲームだとかに求めたのだと思います。
ある時は、「スマブラfor 3DS」をオフラインで、つまりはコンピュータキャラ相手に一人で遊んでいて、何を感じたのか(負けたんだっけ)ブチギレて、そのまま3DSを床に叩きつけたら見事にヒンジの部分から真っ二つになったことがありました。
これを書いていて色々な記憶が蘇ってきました。全ての物事は繋がっていて、切り離そうとしても切り離すことはできないんだなということです。3DSも修理に出して繋がりを取り戻したし。

そして高校に入ってからその後はなんやかんやで現実が忙しくて、予備校で浪人を決めてから大学に入ってからは「リアルを充実させてやろう!」と今からすれば自分の性格や能力的に適正がないことに躍起になって、確かに部活に入って色々楽しかったり今まで関わることのなかったタイプに人と関わったりしたもののそれは結局馴染めなくなり。

それはいいとして、つまり、現代のソシャゲやショート動画などにも言えますが、結局そういったインスタントなものは手軽であるから、そして日々の喧騒に揉まれて時間という貴重な資源はどんどん枯渇していく状況とそれらの相性は物凄く良いから、いつしか本質的な芸術といった存在は頭のどこかに追いやられてしまって、豊かな心や感性を丁寧にケアして育てる時間と心の余裕はもうどこにもなくなってしまうという現実があるのではないかと。

インスタントで手軽なものを一概に批判したいわけではないですけど、でもなんかやっぱり本質っていうのはそうじゃなくて、別のところにある気がしてならないのです。

物語が好きだ_
という見出しを全然回収していませんでした。芸術はやっぱ爆発だねの最後らへんに書いたように、僕は「現実世界の動き方」というただ1つの価値観に飽きたというか、そんな感じなんだろうなと。もちろん、世界をどう捉えるのかというのは人それぞれ全く違います。同じ世界に生きている人はいません。
でも、それでも原理原則や体系的なものは全く同じじゃないですか。人間は空を飛べないし、魔法も使えないし。

物語というのは普通に生きている中では絶対に起こり得ない、新たな価値観の枠組みへと強制的に自分を連れて行ってくれるから面白いのだなと。

物語の中でも特に小説という形式が好きなのは、自分でどこまでも想像できるからだと思いました。
映像や音があるとそれはそれで当然美しいのだけれど、反面誰がそれを見てもある程度同じ感覚を描くだろうし、それはつまり表現されている以上のものを知覚することはなかなかできないということです。

3DSの物凄く小さい画面で「スーパーマリオ64 DS」の箱庭世界をワクワクしながら駆け巡り、「スーパーマリオオデッセイ」でより美しく、広くなった世界をこれまたワクワクしながら駆け巡り、FF16で超美麗な世界で魔法を使いまくり。ちょう楽しかった。

ところが文字というのはあまりにも貧弱な絵面であるにも関わらず、最新ハードのハイエンドグラフィックをいとも簡単に飛び越え、受け手の想像力次第でどこまでも世界を頭の中に広げていくことができて、しかも全て自分好みの完璧に整った美しい世界が出来上がるわけです。画や音の解像度も現実以上というか無限。それはもう理想オブ理想。本は究極のVR。

書き手次第で無限にそれを膨らませることができるし、どんな終わり方にすることもできる。

でもだから悲しいんだよなあああああああああああああどぉぅぁゎああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ

必ず終わってしまう物語

オンラインゲームとかは運営がそれを続ける限り終わらない物語だと言えます。しかしでもそれでもやっぱり限界はあるし、課金要素だとか追加コンテンツだとかで現実が入り込んできて萎えるので、なんか違います。

上にも書きましたけど、やはり小説というのは人間が感覚できる上での最大の仮想現実だと思うので、つまり現実を上回るわけです。それすなわち、自分が今生きている現実がそれによって書き換えられることであって。
だって読んでいる間は自意識というか魂みたいなそれは本の中に全て存在している状態じゃないですか。

ということはそれが終わるというのはなんか自我を強制的に剥がされるというか、自分という存在を消されるというか、失恋というか。大袈裟ですかね。でも実際に僕はこういった喪失感を覚えたのでこう表現することにしました。

なので小説は『読む』というより『訪れている』という感覚に近いです。 とても感動する小説を読んだ記憶というより、 実体験した後のようなリアリティを纏った虚無感に襲われるのがなんとも辛いです。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14222151144

いや、確かに物語がハッピーに終わるのはものすごく嬉しいことなのだけど、なんだろね。

わかった。
その世界があまりにも好きすぎて、現実が嫌だということなのかもしれない。

いや、別に自分の人生がそこまで嫌だというわけではないんだけど、なんだろう。

もっと美しい世界を求めているというか、現実がそんなに美しくないというか。うーん、これも違うな。
自分の好きな世界にただひたすら浸ることができるから好きなんだと思います。だからきっと小説の中のような現実があったらきっと自分はそこで生き続けるんだろうなぁと。

なんか、物語の中の人物はすごく青春してるのに

いざ読み終わって

本を閉じた瞬間

アニメが終わった瞬間



ふと現実に帰る

https://diariobrasil.hatenablog.com/entry/2018/03/25/004918

孤独死はやだよー

https://diariobrasil.hatenablog.com/entry/2018/03/25/004918

ものすごくおもしろいブログを見つけてしまったけども残念ながら久しく更新がないようです。

わかった

なので考えつきました。自分で物語を書けば良いのではないかと。それも自分の命が尽きるその時まで絶対に完成させることはなく。もしかしたら既にそういう作品はあるのかもしれないです。調べたことがないのでわからないですけど。
いや別に完成させてもいいけど、つまるところ自分が死ぬその瞬間までただひたすらに書きまくっていれば万事解決するのだということに気がつきました。
そういえばちょうと最近自分でこんなことを言ったのを思い出した↓

何かを創作するということには人を救う力があると思います。創作者自身が救われるわけですが、それを受け取った人も救われることがあるので素敵なことです。

https://note.com/philosofy/n/nf4fe20ed5185

我ながら中々ナイスなことを言ったのではないだろうか。
AIで曲を作ったり文章を書いたりすることはできるけど、そういった結果だけを求めているのではなくて、創作するプロセスそのものが楽しすぎてどうしようもないんですよね。
だから代替されたとしてもなるほどそうかとしか思わないし、使えるものは使っていくだけです。

こういう方式なら自分が望んだ通りの世界にずっと浸って生きていられるし、それで仮に生計を立てることができたならばそれはもうしめたもので、本当にずっとそこに浸って生きていくことができます。というかそれはもはやただの作家ですね。ん、作家になりたいのか俺は?

なんとここでまたしても新たに自分のやりたいこと、叶えたいことに気がついてしまいました。なんてこった。

作品の世界に閉じこもるのではなく、現実を充実させればいいのか、とかそんなことも考えました。でも現実はありがたいことにある程度充実しているし、そして今よりもだいぶ”リア充”していた時であっても作られた物語の世界に入っている方が満足度が高かったり楽しかったりしたので、どうやら自分はそういう人間なのかもしれないと思いました。

しかしながら正直書いている時間はあまりないし、今後は今よりももっと忙しくなることが確定しているし、などと思いながら「小説を書くには」とか「小説を書く人 特徴」とか何でもかんでもすぐに検索してしまう現代人ぶりを最大限発揮しつつ、まぁ気がついてしまったからにはもう戻れないということでなんか書いてみようと思いました。
芸術やクリエイティビティでは一つのことだけではなく別ジャンルのものも行うことで複合的な作用を発揮するということを思い出したので、という言い訳じみた新たなる夢の提唱を。

上手くいけば自作曲と合わせてなんらかの世界観を表現してみたいです。これで絵が描けたら最高なんですけどね。全く描けません。

まぁでも、そもそも僕がいまこうして文章を書いていることも音楽を作っていることも、どちらも行っているとただそれだけで本当に心が満たされていくんですよね。ただ向き合っている時間がひたすらに幸せで。
これらだけはただ唯一、冷めた目で見ることはなく、圧倒的に熱中して没頭することができます。心の休憩所であり最終目的地でありここに骨を埋めたいというか。概念なので埋めるとか意味不明ですけど。

もちろん嫌なこともあります。曲を作る時、煮詰まったりイライラしたりすることもあります。
でもそれはインプットとアウトプットのバランスが欠けた時ほどの嫌な感覚を伴うものではなくて、必然なものでしょうがないと思っています。

そして、繰り返しになってしまいますが、やはりどんな形式のものであれ、作品というのはその作者のやりきれない感情を架空の世界に展開することで、自らのもう一つの生をそこに表しているのではないだろうか、と。

「作詞少女」という作詞の方法論をテーマに書かれた小説のAmazonレビューにこんな文があったのを思い出したので引っ張ってきました↓

この作品は著者さんの普段からクソ作詞家どもに対して溜まっている鬱憤を晴らすため、作品の形を借りて罵詈雑言をひたすら浴びせる、そういう存在なのではないかと。そう考えれば比較的楽に読むことができます。(繰り返しますが、事実はどうだかわかりません。完全に想像です)

https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R3305P3F7C1KSM/ref=cm_cr_getr_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=B07C52JP69

ただひたすら表現しながら生きていきたい

結局これなのだな、という結論になりました。

黒歴史 悩み 混乱 苦悩 猪突猛進 衝動 何かに対しての怒りともつかない感情 やり場のない感情 一喜一憂 怒り 万能感 混乱 悲しみ 自我崩壊 他者との衝突 対立 別れ 喧嘩 笑い 自分の殻に閉じこもる 外出する 情緒不安定 家にいる 考える 体を動かす 絶望を見る 人生やめようかとまで思う 視野の広さと深さ 希望が見える 生きる道での悩み 社会教育仕事の悩み 生きるとは何か 愛 慈しみ 失敗 挫折 変わるもの 変わらないもの 変わらない思い

とかまぁある程度色々経験して生きてきましたが、うん。

大勢の観客を前にステージの上で踊るとか、GAFAを超える企業を作るとか、そんなド派手エフェクトがキラキラと輝きを放ちまくる凄いものでなくても、内面世界での充実を図れば人生というのはなんと豊かに輝くものだろうかと。

僕にはきっとスーパースターの素質はないし、そもそもなろうと思っていない時点で無理だと思うし。
そうではなくて、京都のお茶所のような静寂に満ちた環境で小雨が降る中、その一粒が誰かの心の奥深くまで静かに響くことがあればどんなに嬉しいことか。
今までの自作曲やnoteも、大体そんな気持ちで作っています。

そしてもちろん何かを表現するということ=自分の内面をそのままさらけ出すということに他ならないので、かなり恥ずかしいです。
しかしそれをも撥ね付けるほどの”何かを表現したくてたまらない”衝動があるので、それをいなして質の高い何かを作ることに昇華させ、そしてそこに圧倒的な熱量を注ぐことをただひたすらに続けることができればもう、それは「我が生涯に一片の悔い無し」というやつです。

なので、極論を言えばお金や収益性はなくても問題はないです。いや、でもそれだと本を読んだり芸術に触れたりどこかへ出かけたりとインプットを経験するための費用がただ枯渇していく一方なので、やっぱりある程度の収入は必要ですね。

まぁ、とりあえず自分が人生で幸福を感じることができるコスパの良さに驚きそして歓喜しておりますよ。
なのでとりあえず自分が生きていけるだけの最低限のお金を何とかすることにしました。

深夜テンション

地獄のような激長激重ポエムになってしまいましたが、(引用部とかもあるけど1万2千字を超えていた…!)なんか言いたいことが堰を切ったようにとどめなく溢れ出てきてどうしようもなかったので、ひたすらキーボードを連打していたらいつのまにかこうなってしまいました。

もし何らかの需要があって、そして気が向いたら、別の記事として細分化してもっと詳細に丁寧に書いてみようと思います。とりあえず今回は感情の吐露を殴り書きで(いつもの文章もほぼ殴り書きだけども)。

健康オタクとしたことが、結局午前三時まで起きてしまった…。

※アイキャッチはAmazonより引用させていただきました

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