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「墓の魚」の【FADO ENTERRO】と、ポルトガルのファド考察

こんにちは。
「墓の魚」の作曲家です。

今日は「墓の魚」の音楽
Chanson funéraire】の中でも、
重要な位置を占める
ファドFado】というポルトガルの音楽
から生まれた
「墓の魚」の【FADO ENTERRO】(ファド・エンテーホ)
の事を話していきたいと思います。

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ファドは、
ポルトガルの民族音楽(あるいは大衆音楽)で、
人生の叙情哀愁文学的に歌う音楽です。

ラテン文学的に語るのなら、
ファドは喪失の歌です。
人生の喪失・・
十字架に架けられた気高さの喪失・・
キリストの歩いた道への追悼・・

詩の国ポルトガルの人々は、
もう帰る事の出来ない若き日々や、
海の向こうへの想いを
郷愁saudade】としてファドの中で歌います。

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一方、「墓の魚」ファドは、
それをさらにメメントモリ(墓想)
特化させた哲学を歌う為、
【FADO ENTERRO】(埋葬のファド)
と作曲家(私)は呼び、
従来のファドとは別物としています
(実際、作曲技法的にも、
かなり別物となっています)

かつてフランドル地方に
果物や財宝の中に髑髏を置いた
静物画が流行った事があります。
それは

どんな栄光や富もいずれは死に絶える。
全てが虚しいものである・・

という【VANITAS】(虚栄)のメッセージが
込められた美術様式でしたが、
FADO ENTERRO】もまた
音楽版の【VANITAS】であり、
[失われていくあらゆるものの墓場の歌]
といえます。

ハエの絵3

その朽ちて虫に喰われた人生bichado】の
歌を伴奏するのがギターラ
(ポルトガルギター)
と呼ばれる独特なギターで、
その悲しみ、哀愁を奏でる音は、
他の楽器では代用できません。

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そして、ファドは、Scutus(スカシ貝)の外套膜の様な
黒いマントンに身を包み、歌われます。

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シェイクスピアや、ゲーテベケット
等に影響を受けながらも、
あくまでその本筋をイベリア精神に求める
作曲家・黒実音子の本質は、
言うならば
[捨てられた聖書の物語]
[ゴミ捨て場の信仰]
[魔女と聖者の悲喜劇]
という南欧でよく題材にされる
宗教的なテーマを内包しています。


はい。わかりにくく、
難しくなってきましたね(笑)

つまり、それは
マックス・ジャコブの詩
【La mendiante de Naples】の様な
[魂の影]の表現として
黒実の作品の中に現れるのです。

以下、マックス・ジャコブの詩を
見てみましょう。

【La mendiante de Naples】

Quand j’habitais Naples, il y avait à la porte de mon palais une mendiante à laquelle je jetais des pièces de monnaie avant de monter en voiture.

Un jour, surpris de n’avoir jamais de remerciements, je regardais la mendiante.

Or, comme je regardais, je vis que ce que j’avais pris pour une mendiante, c’était une caisse de bois peinte en vert qui contenait de la terre rouge et quelques bananes à demi pourries.

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【訳】
「私がナポリに住んでいた時、
我が屋敷の門前にいつも物乞いの女がいた。
私はいつも馬車に乗る前に、
女に硬貨を投げ入れてやったものだ。
ある日、ふと老女が何も言わない事を不思議に思い、
その女をよく見てみると、
物乞い女だと思っていたものは実は、
いくらかの赤い土と、腐りかけたバナナの皮がつまった
緑色の木箱だという事が、まさにこの時にわかった。」

■マックス・ジャコブ「ナポリの女乞食」


この詩の面白さを人に伝えていくのは、
なかなか難しい事です。

この詩には、
この世など一歩間違えれば虚妄分別であり、
そもそも我々の人生そのものが
可笑しな虚妄なのではないか?

というテーマがあります。

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そして、
世界から捨てられた哀れな場所に、
同じく
捨てられた哀れな者の幻影を見る事の
ヴァニタス(世の虚しさ)的な叙情が
この作品にはあると思います。

また、ゴミ捨て場
哀れな物乞いの幻想を見る現象は、
我々が捨て去った己の惨めさに対する
[後ろめたさ]
を持っている為と考える事もできます。

自分より哀れな存在を見て、
彼女に投げ銭を与えていた作者は、
彼女の中に自分の敗北した姿を見たのかもしれない。
そして、己の今の姿に安堵し、
その敗者の幕屋に行く事はもはや無いという
保証を欲したのではないでしょうか?

それは俗世の社会の見せる
安泰の幻に縋りつく行為であり、

「私は死にゆく・・
富も名誉も、もはや意味はない」

という中世のヴァド・モリ【Vado mori】の警句の
逆バージョンなわけです。

(同テーマは有名なタンゴの曲
「Vieja Recoba」にも見る事が出来るかもしれません)。

そう考えると、投げ銭
自分が行く場所であったかもしれなかった
[この世の哀れな場所]
への
[生き足掻く者]からの
供養でもあるのですね。

こういった人生の影への扱いは、
中世ヨーロッパ世界での
の扱い、
魔性の扱いと少し似ています。

こうした
魂の暗闇【Noche oscura del alma】のテーマが、
多くの者が詩心を理解するラテン諸国の芸術には
日常の中に溢れているのです。

日本ではほとんど紹介されない、
この「十字架の下で行われる
魂の闇夜【Noche oscura del alma】
すなわち、
悲しみながら、皮肉に笑う人達の演劇」

酔狂な好奇心からでも
ぜひ、覗いていただけたらと思います。

「墓の魚」の【FADO ENTERRO】は、
公演でも多数演奏予定です。
ぜひお楽しみ下さい。


「墓の魚」のラテン詩と、
メメントモリ曲の融合した
配信動画
「死んだ珪藻とマキシロポーダのミサ」
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