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1%の愛情しか感じられない

またまた珈琲次郎さんの企画に参加させていただく。
今回のテーマは、パートナーから愛情を感じる瞬間

愛情と非合理の関係

愛情を感じる瞬間を列挙しようとしたが、どうも思い浮かばない。おそらく常日頃から愛情には触れている。しかし、意識していないので簡単には思い出せない。

改めて考えると「愛情」が何かわからなくなってくる。ただ、愛情の本質を考えるには時間も知識も足りない。「愛情の定義」はさておき「愛情の性質」については、それらしき仮説を考えついた。

仮説:愛情は、人間を非合理な行為へと駆り立てる

あらゆる「愛情」がこの仮説を満たすとは限らない。しかし、愛情ゆえに非合理な行為に至れることはある

例えば、ペットの飼育。合理性のみを追求すれば、わざわざ「自分の生命の維持に貢献しない生物」を飼育する必要はない。しかし、ひとたび「愛情」を抱けば、嬉々としてあらゆる資源(時間、お金、物品)をペットに注ぎ込める。

愛情は「非合理な行為」の駆動力になり得るのだ。ただし、愛情の搾取との混同は避けるべきだろう。

妻の非合理な行為とは?

ここでようやく「パートナーから愛情を感じる瞬間」を探す準備ができた。すなわち「妻の非合理な行為」の中から「愛情に駆動されていそうなもの」を抽出すれば良い。いくつか書き出してみる。

  • (経済合理性に乏しいが)主夫でいさせてくれる

  • 体調不良の時に(私一人でも困りはしないが)助けてくれる

  • (妻には何の役にも立たないが)話を聞いてくれる

特に「主夫でいさせてくれること」には強い愛情を感じる。経済合理性を考えれば共働きの方が良い。しかも、妻は家事が特別嫌いなわけでもない。妻にとって、私が主夫でいる合理性は乏しいのだ。

以前の記事にも書いたが、私は「家事屋」として妻から必要とされているのではない。こんな非合理を成立させているのは「愛情」と言えるだろう。

受けた愛情の一部しか感じられない

「主夫でいること」が妻の愛情のおかげならば、常に妻からの愛情を受ていることになる。しかし「愛情を受ける」と「愛情を感じる」は区別すべきだろう。愛情を受けていても、その愛情を感じない時間の方が遥かに長いかもしれない。

このように改めて考えることで「妻からの愛情」に気づき、それを感じられる。この文章を書いている、まさに今が「パートナーから愛情を感じる瞬間」となった。「愛情を感じる瞬間」を与えてくれたテーマに感謝したい。

#仲良し夫婦サークル

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