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「人生の価値」に関するアレコレ

人生の価値は何で決まるのか。 哲学的な興味から幸福や死を考えたとき。自分が悩んでいるとき。悩んでいる他者を目にしたとき。さまざまな局面で「人生の価値は何で決まるのか」との問いに出会う。 以下、凡人の戯言に過ぎないが「人生の価値は何で決まるのか」を考える。 人生の「客観的な」価値客観的な価値は「客観」の位置によって変わる。 自然から考える価値 「自然(地球、ひいては宇宙)」からすると人間の人生なんて単なる現象だ。その価値は「どれだけ反自然的な行為(有害物質の排出など)

その人は偽物かもしれない

目の前にいる母親は「本物」ではないかもしれない。 目の前にいる母親が「偽物」でないことを証明できるか。 これは私が小学生の頃に本気で悩み、恐怖していたこと。最近、この現象に「カプグラ症候群」と名前が付いていることを知った。 「偽物」の母親私は小学生の頃、突如にして母親が「本物」ではないと思い込み恐怖した。まさにカプグラ症候群と同じ現象である。 「本物」の母親はどこにいるのか なぜ「偽物」の母親は「本物」の母親を装っているのか 「偽物」の母親と暮らしていて大丈夫なのか

アナログな感情、デジタルな言語

突然だが、今読んでいる本の一節を紹介する。 まだ読んでいる途中だが、この一節を読んで色々な考えが湧き出てきた。書きながら整理してみる。 人間はバラバラが苦手例えば「次の数字を3秒で覚えろ」と言われたら混乱する。 では、これならどうだろうか。 最後に、これならどうか。 登場する数字は全く同じだが、覚えやすさは全然違う。散らばった数字を横一列に並べるだけで覚えやすくなる。小さい順に並べ替えると、さらに覚えやすくなる。 「なに当たり前のこと言ってるの?」と思われるかもし

不足感を煽られて消費する

今回はいち消費者として、資本主義経済との付き合い方を考えてみる。 企業は消費者の需要を満たすために供給するのが基本。しかし、最近の企業は先に生産をし、その生産物をもってして消費者の欲望を喚起しているように思える。つまり、我々は企業に消費を強制されている感がある。 今は需要が満たされ尽くした時代前に読んだ本(参考:『暇と退屈の倫理学』)に次のことが書かれていた。 19世紀初頭は欲望が生産や供給に先行していた 現代は生産と供給が欲望を生み出し、その欲望を満たすよう強制して

専業主婦・主夫の適正なお小遣い

今回は専業主婦・主夫(以下、主婦)のお小遣いについて考える。私は会社員の妻から小遣いをもらっている。そして、妻と私の小遣いは同額だ。しかし、先日「これってオカシクね?」との疑惑が噴出した。 と、拗らせているところだ。夫婦で話し合っても「よくわかんね」という状態なので、書き起こしながら考えてみる。書きながら考えるので、回りくどいと思う。 まずは理屈で考える夫婦で意思決定をする場合は「理屈」が欠かせない。自分ひとりの問題ならば、自分の感情100%で突っ走っても問題はない。しか

老後資金問題から老後を妄想してみた

高齢者の社会保障負担を「収入」だけでなく「資産」に応じて加算する政策案が浮上しているらしい。 私も妻も節約家であり、老後に向けて資産を形成している。しかし、このニュースを聞いて、節約について再考の余地が生まれた。 実質的な資産課税2023年12月6日の日経新聞『社保負担、金融資産も反映 現役負担率3割迫り改革』によると、 ざっくり言うと「収入が年金だけでも、貯金がたくさんあれば現役世代並みの負担を強いられるかも?」ということ。この案には次のような背景がある。 給付は高

病気不安症かも。でも、実は幸せ?

(追伸:書き進めるうちに哲学的な話になってしまった…) 私は心配性だ。特に「病気」に対する心配が強い。これは昔からのクセのようなもので、やめたくてもやめられない。 つい最近、そのクセが再発した。私は左顎にしこりがあるのだが「悪性腫瘍では!?」との不安に駆られた。耳鼻科にてエコーで調べてもらった結果、しこりの正体は正常な臓器であり、その臓器がやや下に降りてきているだけだった。 安堵した。しかし、心配性でなければ気にも留めなかっただろう。受診料は1960円。ケチな私にとって

電車広告に煽られる庶民

電車に乗ると嫌でも目につく広告の数々。 「転職しろ」 「家を建てろ」 「女は毛を抜け」 「男もヒゲを抜け」 「恋愛(結婚)しろ」 「塾に行って受験に勝て」 「それで疲れたら酒を飲もう」 広告費用は1週間で800万円こんな広告を打って意味があるのか? 毎度、疑問に思う。 気になって調べてみた。 首都圏のJRで中吊り広告を出すには1週間で800万円かかるらしい。 1週間で800万円!!! それでも広告を打つということは、それに見合った売上が立つのだろう。 広告はコンプレ

自分本位に生きちゃダメなの?

最近、未婚化と出生率の低下に関するニュースをよく見る。 そこでは結婚や出産を望まない理由と、その理由に対する反論がセットになっていることが多い。 全部が全部ではないが、このような対立をよく目にする。 私はこの反論が全くわからないのだ。 自分本位に生きてはいけない理由って?「自分本位な生き方がダメ」という考えは共感どころか理解すらできない。 そのような考えを非難したり排除したいのではない。 なぜ「自分本位に生きてはいけない」と考えるのか、純粋に気になる。 どういう思考回路

態度の悪い店員こそ正しい

コンビニ。スーパー。ドラッグストア。チェーンの飲食店。 どこへ行っても丁寧に接客をしてくれる。 利用者にとっては嬉しい。 しかし、最低賃金で丁寧な接客をしているのは異常だ。 最低賃金で最高のサービスを「お給料を頂いているのだから一生懸命働かなければ」 私はこのような主張に納得しきれない。 賃金は労働の対価として入手できる。 つまり、最低賃金ならば最低限のサービスで良い。 コンビニなら棚に商品が置かれていて、レジで会計ができれば良い。 商品をキレイに並べたり、笑顔で接客

「親」を特別扱いしすぎじゃね?

(初めに付しておくが、親を大事にしている人を批判する意図はない) 私は大学卒業後、親との関係を「独立した大人同士の関係」と捉えている。 しかし、私の親は依然として「親子関係」を引きずっている。 私は親の意見を特別扱いしない私は親であれ誰であれ、ひとくくりで「大人」と見ている。 私にとっては親の意見も、友人の意見も、本で見た意見も「重み」は一緒だ。 親だからといって説得力が増すことはない。 誰の意見であれ「筋が通っているかどうか」しか気にしていない。 そのため、私は親の意見

私の家族はぬいぐるみ

家族は血縁や結婚によって関連づけられた集団だ。これは「客観的な家族」と呼ぶことができる。 一方、主観的な家族も存在する。自分が思う主観的な家族が、客観的な家族と異なるケースもあるだろう。 客観的家族と主観的家族たとえば「何十年も会っていない親戚」と「毎日を共に過ごすペット」を比べてみよう。多くの人にとって親戚よりもペットの方が「家族感」が強いだろう。主観的な家族は、血縁や婚姻関係に依らず「家族感」の強い集団と定義できそうだ。 生物以外とも家族になれる?さらに深めると、主

孤独に強い人ってなんなの?

どうやら孤独に強いらしい私は子なし専業主夫として暮らしている。20代で専業主夫になるなんて珍しい。故に、主夫の暮らしについて聞かれることが多い。特に多いのが「寂しくないの?」系の質問だ。 ・学校や会社などの組織に属していない ・ひとりで過ごす時間が大半 ・会話の99%は妻が相手 ・起床から妻の帰宅までの間に発声しないのが普通 「孤独を感じうる環境」で暮らしていると再認識できる。しかし、私は孤独感を抱いたことはない。今回は「なぜ、私は孤独感を抱かないのか」という問いを立てて

コーヒーは哲学であり、宗教であり、芸術である。

私はコーヒーが大好きだ。 毎日2杯は飲む。 カフェイン量を気にしなくていいのならもっと飲みたい。 コーヒーの魅力は無限大コーヒーの魅力は味や香りに留まらない。 「コーヒーを飲む」という一連の行為に魅力が溢れている。 コーヒーカップ、テーブル、天気などの外的要素も重要だ。 コーヒーを飲む前、飲んでいる最中、飲んだ後の心境も魅力を構成する要素である。 試しに「場所」を切り口として今までに飲んだコーヒーを振り返ってみる。 自宅 公園 お気に入りのカフェ 久々に帰った実家