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ペペシのアメリカ留学・その4😆✨

その3でオートミールの話をしましたが、アメリカで暮らし始めて最初に辛かったのは、他でも無い食事でした。

当時の私は、ギャル曽根さんなどにははるか及びませんが、1日5食ぐらいペロリとたいらげるやせの大食い😆

そんな私の最初のホストファミリーは、決して裕福ではないだろう家庭。オートミールを始め、味にはある程度慣れることができましたが、旺盛な食欲は満たされません😢

なんと言っても、ご飯が無い!!

言わばおかずしか無い生活ですから、これは辛かったです😅


量的になんとか満足できるのは、学校のランチ。それでも帰宅するころにはもうお腹がすいてきてます。とても夕食まで待てませんが、それでも待つしかありません。

当時、学校へ行くときは、同級生の兄弟のバイクにニケツで通っていましたが、帰りは30分ぐらいの道のりを、一人でトボトボ歩いて帰ります。

そんな私が見つけたのが、学校の帰り道から少しだけ外れたところにあるセブンイレブン!✨


おぉぉぉぉ😍

「地獄に仏」とはこんな時の言葉かもしれません!😆

そこで売っていたホットドッグ🌭が、私にとっては最高のご馳走となりました!💖

必然的に、学校帰りにセブンイレブンに寄るのが日課となります😁

当時、たしかホットドッグ1本が1ドルぐらいだったと記憶していますが、時には2本買って食べることもありました。


経済的なゆとりはおそらく無い家庭でしたから、私が来たからと言って、どこか観光に連れて行ってくれたり、まして旅行に行くなんてことはありません。

それでも食事のことを除けば、ホストファミリーとの暮らしは、とても楽しかった思い出ばかりです。

私より年下の弟妹6人に囲まれ、日本語を教えたり、私の変な英語を直してもらったり、一緒にテレビを見たり、ゲームをしたり・・・。

今考えると、みんなよく私に懐いてくれていたと思います。


9月はちょうど収穫の時期だったのか、休みの日になると、家族総出で畑へ行き、子どもたちも一緒に野菜の収穫をしました。私の記憶だと、牛乳以外はほぼ自給自足に近かったような気がします。

収穫した野菜は、ビン詰めして煮沸して、保存をしておきます。キッチンの裏には大きな納戸のような部屋があり、そこの棚の上から下まで、ビン詰め野菜が並んでいました。

日常の食事のほとんどは、ビン詰め野菜をMomが調理してくれたものです。


ここまで読んでいただき、何となく想像がつくと思いますが、実は家でお肉を食べた記憶がありません😅

一度だけDadがケンタッキーのチキンを買ってきてくれたことがありましたから、決して菜食主義ではないはずですが、日常の食事はほぼ野菜でした。

特にビーンズ(豆類)の食事が多かったです。

お代わりできるご飯も無く、野菜だけのおかずの食卓です。白いご飯を食べたいというのが、素直な私のお腹の声でした🤣


それでもとても温かな家族に囲まれた楽しい生活でしたが、そのファミリーにお世話になって一ヶ月半ぐらいの時期に、事件が起こります。


自宅にあった私のお金が、盗まれました・・・😱


犯人は、おそらく20歳の長兄。スーツケースの中に入れ、ちゃんと鍵までしていたのに、やられました。

アメリカで暮らすのに、金銭的にすべてホストファミリーに頼るわけではありません。学校で必要なものや遊び、セブンイレブンのホットドッグなどは😆、もちろん自費です。


日本からはトラベラーズチェックでお金を持参し、現地でドルへ換金しましたが、やはり初めての土地での知らない人との暮らしですから、念のためということで、スーツケースの中に保管をしておきました。

与えられた自分の部屋には、一応鍵もありましたので、学校へいくときにはやはり念のために鍵をしてから外出します。


ところが・・・

ある時、帰宅して自室のクローゼット内のスーツケースを見ると、いつも立てて置いてあったはずなのに、なぜか横に寝ている。

「あれっ・・・?」

慌ててスーツケース内のお金を確認してみると、思っていた金額と合わない。

部屋のドアの鍵の部分を見てみると、明らかにこじあけられたような跡もありました。

楽しい日々の生活に水を差すような考えがよぎり、どうしても疑心暗鬼になってしまいます。


それでもやはり信じたい気持ちがありましたし、はっきりした確証もありません。

そこで私は、自分の勘違いかどうかを確認する意味を含め、スーツケース内のお札に小さな数字の番号を鉛筆で書いておきました。

たしか12枚ぐらいのお札に、①~⑫までの数字を振っておいたのです。


そしてそれから数日後。

帰宅してお札を確認してみると、⑧のお札が無い!😱


まだ18歳で社会経験もありません。

言葉も充分通じない環境です。

今のように、簡単に日本の両親と連絡を取ることもできません。

ネットで何かを調べることもできません。


いったいどうしたらいいかわからない私は、やはりDadに正直に話をすることにしました。

Dadの部屋へ行き、つたない英語で状況を説明。

どんな話をしたか、どんな言葉が返ってきたのかは、今となってはもう記憶にありません。

ただ私の話を聞きながら、優しかったDadの顔が、みるみる険しくなっていったのだけははっきり覚えています。

その時点ですでに、誰がやったのかをおそらく分かっていたのでしょう。


その後Dadは、私が通っている学校と、私がお世話になっている「インターナショナル・フェローシップ」という団体へ連絡をし、調整をしてくれたのだと思います。

半月もしないうちに、ホストファミリーの変更と、それに伴う転校の知らせを受けました。


実はその間に、一度だけ日本の両親からの電話があります。渡米してから、初めての両親との会話です。

最初に父と話をします。内容は、、、もう思い出せません。けれど、必死になって感情を抑えながら会話をしていたことを、覚えています。

それから、母に電話が変わりました。

母の「もしもし」という声を聞いた瞬間に、もうダメでした。

抑えることができない嗚咽。

もう言葉になりません。

当時の国際電話料金は、1分で1000円ぐらい掛かっていたようです。本当に高い電話料金を、両親に払わせてしまいました😅


振り返ってみると、長兄も何度か私を遊びに連れて行ってくれていました。行く先はゲームセンターで、言われるままにお金を貸したこともありました。

おそらくその時に、こいつはどっかにお金を持っている、ということを悟られてしまっていたのでしょう。


引越しの前日の晩、Dadの部屋で二人きりで話をしました。

「I'm sorry」

大好きだったDadの言葉に、もう涙をこらえることができません。

楽しいこともたくさんあったけれど、やはり私は一人きりで辛かったのだと思います。

自分の力だけでは何もできず、選択権も無く、与えられた環境を受け入れるしかありません。


涙の止まらない私の横で、Dadの大きな手が私の肩を抱いてくれていました。


つづく。

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