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父がボケて、母がさらにボケた話

いやな予感はしていた。
コロナ前に父(現在87)
が転倒し、頭を打って入院したのが、母(現在81)が胆嚢摘出手術を受けて仮退院した二日後だった。それでもその頃はまだ二人ともまともだったと思う。電話でのやり取り、主治医の説明を理解するなど。
しかし、コロナ禍を経て、父の記憶が少しずつ怪しくなっていった。
何度も同じ話をする。聞く。短期の記憶がとにかく定着しない。
困ったものだと思っていたが、母がまともだったのでまだ少しは安心していた。
母だけは正常だと。(母は足が悪く、内臓疾患もあるが頭は正常)

それが、3月のこと。
父が運転免許を返納しないので、どれだけ説得しても受け付けないと母から連絡が来た。ちなみに両親は福岡在住。私は大阪在住。
電話で父を説得するもなかなか手ごわい。
結局、横浜に住む弟が3日間だけ福岡に飛んで、無事、車は廃車となった。
廃車した事実を父が忘れてしまうので、車の前で弟と父が撮った写真と弟が考えた簡単なキャプションを添えて、紙にしておいておくようにと。
父はしばらくは車がないことを怒ったり、嘆いていたようだが、駐車場に別の車が停まるようになって少しずつその事実を受け入れたようだ。もちろん弟が用意した写真は穴が開くほど毎日見ている。

そんな5月のある日。ケアマネージャーさんから電話が来た。
「どうもお母様がゴミ出しの日を間違えているみたいなんですよ。」と。
え?
母が?
父なら間違いそうなものだけど、母が?

すぐに母に電話して確認すると、「私はゴミの日は間違えていない」という。
しかし、ケアマネージャーさんが大阪の私のところに電話してきて、わざわざ嘘の報告をして、誰が得?何が目的?となる。
どうも怪しいので、先週一週間ほど実家に行ってみた。

母は見事に変わってしまっていた。
私が着いた日は、夕飯は出前を取ろうといったのに、どうもそれが母のルーティーンを壊してしまったみたいなのだ。
台所をウロウロ歩き回り、食洗器やシンク下、食器棚の扉を開けたり閉めたりを2時間ほど繰り返す様子を見ていて、ああ、これは普通ではないなと確信した。
聴力の衰えもひどいし、理解力、判断力が落ちているのでまるで会話が成立しない。
そして翌朝。5時に私が起床すると母はすでに起きていて、
「朝4時にゴミを捨ててきた」というのだ。
カレンダーを見るとゴミの日ではなかった。
母に事情を説明して、ゴミをゴミ捨て場から引き取りに行った。
やはりわかっていない。
しかも、ゴミ捨て場は急階段を降りるので、危ないね、少し遠回りになるけど、車道のスロープをつたっていった方がいいねと昨夜話したばかりなのに。真っ暗な中、階段を一人で降りていくなんて。

ああ。

いろいろあかん。

他にも深夜徘徊(家の中のみ)、曜日を忘れる、薬を飲み忘れる、お風呂に入ろうとしない、汚れた服を着替えない、同じものを何度もたくさん買い込むなど明らか認知症あるあるのてんこ盛りだ。

一番きつかったのは、母の手料理の順番がめちゃくちゃになっていたことだ。昔から料理が好きで、晩酌をする父のために酒の肴を、育ち盛りの私たち子どもにはお肉やお魚、野菜をたっぷり使った料理を用意し、父の父(私の祖父)と同居していた時期は年寄り向けの噛みやすくて、飲み込みやすい料理まですべて手作りでこなしていたのに、今は料理の手順もめちゃくちゃになり、味付けもおかしくなっている。
肉や魚は生焼け、生煮え。みそ汁の具が煮えないうちに味噌を入れようとする。

急遽母の兄弟たちに声をかけ、集まってもらった。まだ母はなんとか誰が誰か判別できるがいつわからなくなるか、こちらも想像がつかないからだ。
コロナ禍もあって久しぶりの兄弟再会に母も喜んでいたのは今回、私が帰省したハイライトの一つだ。

そして、もう一つのハイライトは脳神経外科でMRI診断と認知症のテストを受けさせ、診断を下してもらうことだ。病院に行くのを嫌がる母をなだめすかして半ば強引に連れ出した。
結果は30問中、9問しか正解できず、MRI画像診断では脳全体が委縮して、記憶をつかさどる海馬も委縮している重度の認知症とのことだった。
症状は明らかに父より悪い。
ドクターからは、認知症をすでに発症している父との二人暮らしは、もう無理だとはっきり言われた。

不思議と失望や落胆の気持ちは沸いてこなかった。
むしろ自分の勘が正しかったと背中を押してもらったように感じた。

他にもいろいろと問題行動を起こす母の細かいことは省略する。
そのたびに私のメンタルは少しずつ削られる。
一番は深夜徘徊して、私が一度も熟睡できなかったことが大きい。

ここから先は両親を施設に入れるか、どうするか、弟たちとも話し合ったうえで、いろいろとやることが山積みだ。

とりあえず、いったん大阪に戻ることにして、
新幹線に飛び乗った。

ぼんやりと車窓を眺めながらこれから先のことを考えると、その道のりがあまりに険しく長いものになるだろうという予感しかしなくて、途方に暮れる。

広島を過ぎ、岡山を過ぎ、姫路を過ぎた頃だろうか。
夕暮れの瀬戸内海にライトアップされた明石海峡大橋が見えた途端、
「ああ、関西(大阪)に戻ってきたんだ」と感じた。
明石海峡大橋はいつも通り美しいだけなのに、なぜだか涙があふれて止まらない。
母がすっかり変わってしまったことへの戸惑いなのか、重度の認知症であることをすんなり受け入れてしまった自分への憎悪の気持ちなのか、あの二人を置いて大阪に戻ろうとしている、そして彼らをこれから施設にいれようとしている罪悪感なのか、それとも連日の寝不足で今夜こそ、自分の家でゆっくり寝られると安堵した感情なのか。私はその溢れ出る涙に名前をつけることがうまくできなかった。

涙に名前はいらないとも思った。

たぶん、これからも私の頬を何度もこうやって名前のない涙がつたうことになるだろう。

それでも、
それでもだ。

長期戦になるであろうこれからの遠距離介護、無理をせず、自分を労わりながらやるしかないと思った。

また追記を書くと思います。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

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