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AIとうまく付き合っていきたいのです。

昨日AIのリスクについて書いた。

それに関連して、これからの社会ではどのようにAIと付き合っていけばいいのだろうか。

よく、「AIによって人間の仕事が奪われる」といった類の言説を見聞きすることがある。私としては、それは確かにそういう側面もあるだろうと思う。

「仕事が奪われる」と書くと物騒な感じがするので、あえて少しマイルドに言うと、「わざわざ人間がやらなくても済むことは機械に任せようよ」的な物事は、どんどんAIに任せていく社会に向かっていくだろう。

それが総じて良いことなのか悪いことなのかについては、なかなか答えを出しづらいが、考えていかねばならないところではある。

機械的な単純作業については、AIの最も得意とするところだと思う(というか、むしろAIを搭載しない普通の機械にもできる)から、そういうことの価値は今後さらに低下していくだろう。(すなわち、人間がやる「仕事」として賃金を支払う対象では無くなっていくだろう。)

しかし、高度に人間的な操作が必要になる作業については、現状ではそれを実現するAIもロボットも存在しないので、人間がやるしかない。

ごく一例として挙げるならば、各住宅の玄関先に置かれたゴミの入った袋を収集し収集車に入れいく作業とか、大規模な倉庫に置かれた多種多様な雑貨を注文書通りに集めてきて箱詰めする作業などだ。ただ、こうした仕事についても賃金は上がりづらいだろう。

一方で、創作の世界ではまた違った様相を呈する可能性がある。

文章や画像や動画を容易に生成するAIが登場することによって、創作の世界はどのように変貌していくだろうか。

私なりの考えとしては、それらを生成するAIを「うまく使いこなせるプロ」がより成功するだろうと思う。

昨日も書いたように、こうしたAIは誰にでも使えるからこそ、創作物の量が爆発的に増えることが予想される。だから、単に何かを生成するだけでは価値を生みだしたことにはならない。

しかし、すでにその創作の世界でプロとして表現活動をしている人たちは、そういうAIを「自分の表現のための道具」として活用することで、表現の幅をさらに広げていくことができる可能性がある。

このように、AIのアウトプットに依存するのではなく、その結果を適切に手懐けられるかどうかが重要そうだ。

しかも、そのアウトプットを手懐けるためには、そのクリエイターが過去の経験や価値観に基づいてAIのアウトプットを適切に「評価」する目線を持っている必要がある。これは、その道の専門家やプロにしか為せない業だ。

私のように、細々と駄文を書いてnoteに投稿させていただいている身としても、こうしたAIとどのように付き合っていくのか、その距離感をうまく保つにはどうすればよいかを考えていかなければならないだろう。

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