「死」と向き合うときに感じること
4月の半ばに会いに行ったところだったけど27日にまた会いに行こう、会いに行ける時に行っておきたい。
そう思っていた矢先、26日の朝7時20分に母方の祖母が亡くなった。98歳だった。
今までも死と向き合ったことはある。母方の祖父、父方の曽祖母、父方の祖母、あと飼っていたペット(ハムスター3匹、犬1匹)、今回合わせて8回。
幼い頃はお骨を見るのが少し怖かったり、死というものが理解できているようないないような感覚。でも今はなんというか「死」に立ち会うのが若干慣れてきている感じもある。
孫である私はもちろん祖母の死は悲しかったし、棺の中の顔を見るともう話せないんだとやっぱり涙が出てきた。でも、突然の別れではなく老衰だったため、いつ来てもおかしくないと心の準備ができていたこともあり、悲しい反面、私の心は落ち着いていた。
通夜の帰りの車で母が吐露した。
「ちょっと(心が)落ち着いたかな。心が軽くなった気持ちはあるんよね。寂しい気持ちももちろんあるんやけど。」
母の本音。嘘はついていないと思うし、突然の死ではないからこそ母も別れの時がいつ来るかわからない不安定な状態が続いていたため、こういった言葉が出てきたのも納得がいく。
告別式の最後の叔父の挨拶で祖母はお兄さんを戦争で亡くしているがそれだけではなく母親と姉も幼い頃に亡くしていたことがわかった。祖母のことを全然知らなかったことに気づいた。意外と身近な家族について私は知らないのかもしれないと思った。
こうやって人との死に直面していつも思うことは「もっと会っておけばよかった」「たくさん話しておけばよかった」ということではなく、「今会える会いたい人には会っておく」「やりたいときにやりたいことをやっておく」ということ。それをメッセージのように受け取っている。(別に遺言でもらったわけでもないけど自分の中で勝手にそう受け取っている)
話は変わるが、実は昨年あたりから「母に毎月会う」ということを自分に課している。ちょっと形式的ではあるし、前まで実家は帰れる距離にあるにもかかわらず、半年ぶりに帰るなんてこともあったので毎月用もないのに会いに来るようになってから母には「お母さんが死ぬと思ってるの?」なんてツッコまれたりもした。(母は別に病気もしてないがこの問いに正直YESともNOとも言えない)でもこうやって決めて定期的に顔を見ることで安心もするし、母はなんだかんだ嬉しそうにいろんな話をしてくれる。
また今回を機にではないけど前からやりたいと思っていたことがある。両親にバケットリストを書いてもらおうと思っている。できたら5月あたりには。私はまだ30代だけどバケットリストを少しずつ書き足していっており、やってみて気づいたのは30代の私でも「もう時間がない」と感じていることだ。生き急ぐつもりはないけど、私は特に○○に行きたいという項目が多かったりするので、そう考えると時間は実はあまりないように感じる。あっという間に年を重ねるなんてことになりそうなのでやはり自分のベストなタイミングでやりたいことをやっていきたい。自分だけではなく、今まで何かと我慢もしてきた両親にも書いてもらい、自分のやりたいことや行きたいところを意識して、できることなら時間を取ってすぐにやってほしい。これは私自身の願望ではあるが、この機会を通して両親をもっと知る機会になるのではと期待もしている。
今更ながら自分自身が心地いいと思える、ある一定の距離を取って家族と接するようにしてきたけど、敢えてここで両親の心の内を深掘りしていきたいと思っている。今現在コーチングをやってることややりたい100のコトを意識するようになったからかもしれない。本人たちがやりたいかにもよるが、父と母、それぞれに時間を取ってもらって具体的にいつするのか、どうすればできるのかを一緒に考えたい。
バケットリストを書いてもらって、内容は公表しないが、両親と話してどんなことがわかったかをまたここで書き記せたら嬉しい。
会いたい人には会いたいと思ったその時に会いに行こう。
やりたいと思った時にやりたいことをやろう。
最後に撮った祖母と母と3人の写真を眺めながら、そんなことを思った。
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