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私にとってクンダリーニヨガとは何なのだろうと考えていました。身体を思い出すこと。ことばを思い出すこと。愛を思い出すこと

【クンダリーニヨガと出会い、私が思い出したこと】

クンダリーニヨガは、私に「身体」を思い出させるものでした。

子どもの頃の私は、体育が嫌いでした。逆上がりや水泳は「できない」ということを突きつけられたし、長距離走だって苦しいだけだし。

大人になってからも、何一つ運動はしませんでした。逆に、本を読んだり映画を見たり考えたりすることは好きで、余計に「頭ばっかり」の人になりました。

大学院にも行きましたが、そこでも実践には興味を持てず、思想や評論など書き言葉にばかりに関心が行きました。

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けれど、2011年、私は、身体性を無視した自分の生き方に大きな疑問を感じます。本の中にリアリティを感じ、まるで頭の中だけで生きているような自分は、何かを大きく間違えたのだと。

「このまま同じようには生きていけない」とマレーシアに渡りました。

この時から、日本の書籍を読むのをやめました。それから10年、2021年まで、一冊も、日本の本を読むことはありませんでした。

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マレーシアでの暮らしの中、ある日、友人のドミニクに声をかけられました。

「ヨガの資格をとったの。友達にだけ教えてるんだけど、こない?」

私は、ヨガクラスを探していたわけではないし、たまたま友人になった人が、たまたま私に声をかけたのです。それが、クンダリーニヨガとの出会いでした。

人生を変えるようなことは、本当は、頭の中の計画書にはなく、偶然の結び目に落ちているのでしょう。

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クンダリーニヨガがどんなものか調べることもせず、私はクラスに出ます。

3ヶ月ほど続けたある日、エクササイズを終えて最後のディープリラクゼーション。横になって目を閉じていると、恐ろしいほどの幸福を感じました。

目を開きました。白い天井が見えました。

そのとき、天井は「存在」だと知ります。

「あれは天井で、あれは私と同じだ」

「私は、ここにいる」

「ここにいる私は、愛されているのだ」

その強烈な感覚は、私を圧倒しました。それは、忘れていたものであり、何かに触れることでした。

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クンダリーニヨガでは、記憶は「身体に置かれている」といいます。脳の引き出しにあるのではなく、身体に置かれているということ。それは、どういうことでしょう?

ヨガの最中は「瞑想的」な状態に入ります。変性意識といわれるものかもしれません。

そうして身体を動かすことによって、記憶にアクセスしニュートラルにする、つまり癒しを行っているのでは、と私は思っています。

そうすると、身体というのは、比喩でもあり、実際のものでもあるということになります。

そういう「場所」にアクセスするためには、理解しようという欲を捨てる必要があります。

そのときは分からなかったけれど、今思えば、近代という環境のなかで、自我というフィクションを作り続けて自分の存在を確保してきたつもりの私には、それを拭い去るために、10年が必要だったのでしょう。

身体は、いつでもそこにあったのに。私は、いつも天井と同じで「存在」していたのに。私は、いつも「愛」の中にあったのに。

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私は、昨年、生まれて初めて小説を書きました。読んだ方から「音楽のようだ」と言われました。

小説を書くとは、私にとって、全く身体的な作業です。

身体に残る記憶にアクセスし、リズムや呼吸を呼び起こし、ことばにのせるのです。

身体を思い出したように、私は、ことばを思い出していきました。

10年間も、外から来ることばを遮断したことには、そんな意味があったのだと、今は思います。ことばを、もう一度獲得する必要がありました。

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「ヨガクラスに来ない?」と、あの日、ドミニクから声をかけられていなければ、私はいま、小説を書いていないでしょう。

暗闇の中に、飛び込まなければ。

私を成り立たせるものを投げ捨てて、泳いでいなければ。

近代の物語を捨てて、偶然の光に身を投げ出していなければ。


なんにも要らないと思った私は、思い出しました。本当は、あったものを。


身体は、いつもあったのです。

ことばは、いつもあったのです

私は、忘れていたのです。


愛の中にいたことを。


(終わり)

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