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デリー到着

2001年8月30日の夜。私は機上の人であった。眼下は漆黒の闇に点々と人家の明かりが灯っている。いま、私はどこの上空を飛んでいるのだろうか?シートのポケットに入っていたエア・インディアの飛行経路図を見るとチベット及びヒマラヤ上空を飛んでいるはずなのだが、残念ながら夜間飛行なのでヒマラヤの勇姿は望めない。
チベットとインド・ネパールとを隔てるヒマラヤ山脈は人物の往来を拒む自然の要塞ではなく、古くから遊牧民や交易商人、僧侶が頻繁に行き来していた。1999年に公開された「キャラバン」という映画(監督:エリック・ヴァリ、脚本:オリヴィエ・ダザ、出演:ラクパ・ツァムチョエ他)ではヒマラヤ越えの塩の隊商を営んでいるドルポ(現在はネパール領だが、古くからチベット人が住みついていた地方で、今でもチベット語が使われ、古いチベット文化が残されている)の人々がチベットで手に入れた自然の岩塩をヒマラヤの南に運び、食料と交換する姿が描かれていた。すべての撮影は車の入ることの出来ない標高5000mを越える山岳地帯で行なわれている。この映画のロケーションに選ばれたのはタラップ谷とリンモだ。どちらも北ドルポと南ドルポを分ける開放・未開放ラインに沿って存在する。リンモの近くにはポクスムンド湖という美しい湖があり、映画でもその紺碧の空を映し出している湖面を見ることが出来た。ネパールで湖と言えばポカラのペワ湖だが、このポクスムンド湖こそネパールの宝であろう。興味のある方はご覧頂きたい。樹林限界線上で育ち、生まれて初めて「木」を見る少年に惹かれるだろう。
現在、もっともよく使われているルートは、チベットのラサからネパールのカトマンドゥを結ぶ中尼公路である。ヒマラヤの急斜面にへばりつくように作られた国境の町ダム(標高2,350m)からイミグレーションと税関のあるゲートを越えて10kmほど山を下ると友誼橋(Friendship Bridge)があり、国境を越えてネパールの国境の町ゴダリに入る。ネパールからチベットへはその逆だ。しかし、このルートは比較的近年になってから造られたもので、古くから使われていたのは、代表的なルートとしては、ギャンツェからチュンビ渓谷を経てシッキム(インド)のガントクを結ぶルート、シシャパンマ峰の西側にあるキーロン渓谷を経てネパールのシャルブペンスィに至るルート、シェルパ族の移住ルートで交易ルートであるナンパ・ラ(峠:5,716m)を越えるルート、日本人僧侶の河口慧海がチベット入りしたとされるクン・ラ(峠:5,411m)を越えるルート、西チベットのカン・リンポチェ(カイラス山)に近いプラン(ネパール名:タクラコット)と西ネパールのシミコットを結ぶルート、シドニー・ウィグノール著「ヒマラヤのスパイ」の中で記されていたセティ・ゴルジュを経てウライ・レク・ラやティンカル・リプ・ラ、リプ・レク・ラ(3つともプラン=タクラコットへ向う)が挙げられる。また、ダライラマ14世が脱出したルートもあるが、それについては改めて書くことにする。中尼公路以外のルートは現在閉鎖、或いは外国人には閉ざしている。
成田から乗ったエア・インディアの機内では、これと言って特筆すべきことはなかった。アルコールのサービスが無かった(チベットへ行った時のJAL機ではあった)ことと、機内食で出されたカレーに「マサラ」を感じたことくらいである。窓側のシートだったのでずっと眼下を眺めていたのだが、前述した通り、夜間のため何も見えない。函館の高校時代、休みに帰省するたびに乗っていた飛行機を入れると、飛行機に乗った回数は数10回あるのだが、せいぜい関空~上海、上海~成都、成都~ラサ間の2時間~2時間半が最長である。人間、飛行機に乗って何もしないで暇を潰せるのは3時間が限度なのではないだろうか?それ以上になると退屈の虫が湧き出してくる。
暇だったので本でも読もうかと思ったが、あいにく分厚いCADのマニュアル本(英語)しか機内持ち込みのリュックには入っていなかった。辞書で分からない単語を調べながら読むにはちょっと大変だ。チベット人達を持つであろうと思われるのはやはり3次元だ。CADのアプリケーション・ソフトに付いてきた英語のマニュアルを見てみると、メニューやコマンドの細かい説明はされているものの、具体的なモデリング・レンダリング例は書かれてはいなかった。日本語のハウツー本には例題などが載っており、とりあえずそれを叩き台にして英語訳し、指導していかなければならないな~~~と改めて思われた。
以上のようなことを考えていると、飛行機はどうやらインドの首都、ニューデリーに近づいたらしい。人家にの明かりが多くなってきた。飛行機は着陸態勢に入る。
イミグレを抜けると荷物の確認に走った。別にエア・インディアを疑うわけではないが、荷物の紛失は稀にあることである。前回、チベットに行った際は、荷物を預いれなかった。ただ、今回は荷物が多い。いつまで待っても自分の荷物が出てこない場合は、税関申請を行う前に、近くの係官にクレームを申し立てるのが得策である。手荷物案内でProperty Irregularity Report(事故報告書)を作成してもらう。荷物が送れたり経由地空港に降りたままということはまれにある。手違いで荷物が送れたり経由地空港に降りたままということはまれにある。私の場合は直行便なのでその可能性は低かったが、AI307の最終目的地はムンバイ(旧ボンベイ)だ。そこに運ばれる恐れがあった。荷物が見つかっても、手元に届くのには数日かかる場合がある。その場合、日本国内の自分の住所も伝えておかなければならない。ここでは、ポスポート、航空券、クレーム・タグの提示をする。荷物の個数、形状、色、中身などを報告し、税関申請をする前にクレームを申し立てないと航空会社に責任を問えなくなることになる。最終的に紛失となれば、航空会社に補償してもらえるが、航空会社に荷物の追跡調査をしてもらう際は、
「Can you put a trece on my luggege?」
と問い合わせることは忘れてはならない。
あちこち探しまわした挙句、だだっ広い到着ロビーの片隅に私のバックは取り残されていたのを発見した。入国カードの記入で戸惑ったので到着ロビーに下りてくるのが遅くなったのだ。幸い、荷物は無事だったようである。
続いて、両替をしなければならなかった。日本ではインドルピー(以下ルピーと省略する)の両替は出来ない。デリーに着いてやっと現地通貨に換えられるのである。さっそく、到着ロビー内にあったState Bank Of Indiaの前の行列に並んだ。持ち金は1800ドル近くある。いくら両替するかは迷ったが、ここは一つ、太っ腹なところを見せるか?という勢いで端数を含めた428ドルを両替した。当時(2001年8月30日)のレートで1ドル=46.30ルピーである。ルピーに換えると、19,826.40ルピーになった(端数処理で実際に手にしたのは19,815ルピーだが・・・)。インドの最高額紙幣は500ルピー札である。それだけで39枚だ。財布に収まりきれない。その札束を手にした時の心境は、「億万長者になった!!!」である。
1cm近い札束を手にした私は、いよいよインドの地を踏むべくゲートを潜った。ゲートのところで係員が「荷物のタグを見せろ」と言ったような言葉を発したような気がするが、ボーディング・チケットを無理やり手渡して潜りぬけた。
出迎えにはデリーの旅行代理店の口髭を生やしたR氏が部下一人を引き連れていまかいまかと待ち構えており、私の名前の書かれた紙を振っていた。私がそれを見て「それは私だ」とアピールすると、満面の笑みを称えて、
「Welcame To India!!!」
とハグしてきた。男に抱き締められるのは正直苦手である。
到着ロビーにひしめいていたタクシーの客引きをぬって我々3人は駐車場に向った。初めてのインドの夜は思ったほど暑くはなかった。だが、じっとりした空気が肌に触れてくる。インドの酷暑季は5月、6月である。その季節になると気温は45度を越える。8月の終わりにあたる私が行った時期は、ちょうど雨季が終わりかけようとしている時期で、気温もそれほどではないらしい。しかし、熱風とまでは言わないまでも、暑い湿った空気は暑さの弱い私には多少応えたが、我慢できないほどではない。明後日の朝には涼しいダラムサラに行くのである。一日くらい耐えるとしよう。
我々を乗せた車はインディラ・ガンディー国際空港を出ると、デリー市内へ向けて道路をぶっ飛ばした。今日の宿泊先は、デリー北郊外のチベッタン・ニュー・キャンプ内にあるホテルである。途中、オールド・デリーにさしかかった時、R氏は
「ここがオールド・デリーだ」
と言ったが、中国でもない、チベットでもないアジアの異国の町は幻想的に目に写った。
そして30分ほど車を飛ばしただろうか?目指すホテルに到着した。

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