【連載小説】「心の雛」第十話
コポコポコポ……。
ハーブティーをティーカップに注ぎ入れる音がする。私のお気に入りのハーブとひとつまみの塩も。
ちらりと見ると、ちょうど先生が人差し指でカップの中の温度を確かめているところだった。
「はい。お風呂ができました」
「はぁい」
私は返事をして、カップまでトコトコ歩いて行く。
私のバスタイムはゴージャス極まりない。毎日、ティーカップで手軽にお風呂を作ることができるのだ。
残り湯をもったいないからと洗濯に使う必要もなく、入浴が済めば裏庭に捨てて植物たちのドリンクになる。違う香りにしたい時はハーブを変えてみる。塩の量を増やせば身体がプカプカ浮く不思議なお風呂になる。
「……覗かないでくださいね」
「はいはい」
先生が朗らかに笑って化粧室あたりで答えてくれた。
私のバスタイムの間、トイレ掃除をすることにしたらしい。ガシガシとブラシの音が軽快に鳴り響いた。
先週、先生と同じように『人の「心」に触れることができる』という女性が患者として来院した。触れるって何か感触があるんだろうか。喜怒哀楽は分かるらしいけど。
先生の心には「怯え」があると言っていた。私は両手で爽やかな香りの湯をすくう。何に怯えているのだろうか。もしかしなくても、私がここにいるせいだろうか……。
ちゃぽ……カップの縁に背をもたせ、考えた。
不安は伝播する。
背中の羽の生え際がズキッと痛んだ気がした。
患者様は絶えない。昨日は一人、今日の午前中に一人、患者様が卒業した。
卒業。治療は終わりではない。
完治というものはないのだということを、私はこの先生に診てもらうようになってから初めて理解することができた。生きている限り心は変化する。外界も変化する。内面も変化する。その時々で気に病んだりするものなのだ。生き物なのだから。
当初の心の病からくる身体の不調状態が一旦和らぎ、あとは自己の治癒力に任せても大丈夫だという状態になることを、先生は「卒業する」と言う。
卒業時の患者様の表情はとても素敵だ。
前を向いて生きていける顔をしている。目が輝いている。
「先生。本当にありがとうございます」
「はい。でも、僕は整えているだけです。◯◯様がご自身を大切になさったからですよ。また何か変だなと思うことがありましたら診てみますから。いつでもご連絡くださいね」
とはいうものの、診療経過中の患者様で二人ほど、数日空けるとまた元に戻ってしまった方もいた。心の病は状態がすぐ変化する。良くなってきてもちょっとした出来事でまた悪くなることも多い。
患者様の多くは街に住んでいて、街は刺激が多い。人々の生きるスピードも早い。せわしなく日常に追われ、彼ら彼女らは自分の身体の調子を振り返る時間を持ちにくい。
私くらい手軽にバスタイムを味わえたらいいのにと思う。あれは至福だ。あれなしじゃあ、私はもう生きていくことなんてできないかもしれない。
「先生ーっ! お風呂、終わりましたぁーっ!」
「あぁ、雛。分かりました」
……今は雛と呼ばれた。それだけで心が弾んでしまう。
カルテを携えた先生が戻って来た。どうやら電話があったらしい。
「またご予約ですか? 先生は人気者ですねぇ」
私がニヤリと笑って言うと、先生は少し困った表情をした。
「叶様からのご予約でした。明日です」
「あ、明日⁉」
叶様とは先生と同じく「心」に触れることができる心のお医者様だ。でもって前回の診察は挑発めいた言葉ばかりで結局は何も整えられなかったのではなかろうか?
先生は笑ってはいたが瞳に悲しみを灯していた。
叶様は前に先生にこう言った。『怯えていますね』と。一体先生は何に怯えているのだろうか。
明日が怖かった。
翌朝、先生が私に言った。
「ずっと胸ポケットにいた方がいいかもしれない……」
私は一気に浮かれてしまった。
「いいの⁉ ずっと先生の側にいていいの⁉」
やったー! と両手をバンザイして満面の笑みになった私を見て、先生がくすくすと笑っていた。つい、と先生の中指が私に差し出され、ためらうことなく飛びついた。私がくっついた瞬間、先生は私の心に触れたのだろう。目を瞠って、それからにっこりと、ものすごい笑顔を私にくれた。
あーっ! きっと嬉しい気持ちが伝わっちゃったんだ。
白衣でうまく隠れる胸ポケットにいそいそと潜り込む。ものすごく小さな私の手がポケットから二個ほど飛び出している。見られたとしてホコリか模様だと思ってくれるといいのだけど……。
時々顔を出して息をして、ついでに先生の匂いも嗅いだ。幸せな匂いだった。
「雛」
「はい、何でしょうか?」
「いつも、ありがとう」
指の腹で優しく頭をなでてくれた。何もかもが幸せだった。
一時間後、叶様がやって来た。とたんに先生の心臓の音が再び早鐘をうつ。
声も動作もいつも通りだけど、心臓だけがいつもと違う。
「ご予約いただきありがとうございます。どうですか? 体調の方は」
先生が診察室を手で示し、言った。
女性は部屋へは入らず、その場でバッグから何かを取り出した。私もポケットからこっそりと覗いていたが、出したモノを見た瞬間、先生の心臓がドクリと大きくひと跳ねした。
私も戦慄した。
モノ——妖精狩りに使用される「捕獲ちゃん」だったからだ。
(つづく)
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