【連載小説】「心の雛」第五話
先生がプリンを作っている。
シュンシュンと音を鳴らした四角く銀色の蒸し器も準備万端だ。無駄のない手つきで蓋を取り、固まっていないプリンを並べた。濡らした布巾で包んだ蓋をし、先生がタイマー代わりの砂時計をひっくり返した。
私はいつものごとく、テーブルの上にちょこんと腰掛け、プリン作りに集中している先生の背中を眺めていた。本日は休診日である。
先日の患者様の診察を思い出す。
「先生は患者様の身体を整える時、足首を触りますね」
「えぇ、そうですね」
「痛いところじゃなくて、どうして足首なんですか?」
私が尋ねると、先生は小首を傾げてゆっくりと答えた。
「足は、人間の身体の心臓から一番遠いところにあります。足首を触ればきちんと遠くまで血液が届いているのか、正しい巡り方をしているのか、分かります」
「ふぅん」
「足首を触りながらじっと確認しているとですね、僅かですが反応を感じることができるのです」
「反応? 何のですか?」
「うぅん……、脈みたいなものでしょうか」
頭の良い人の説明は難しい。先生の治療は感覚的なものなんだろうか。前にプリンの混ぜ具合を尋ねた時も、先生は『このようにガーッと混ぜて、あ、ほら、何だかいい感じになってきました』みたいなことを言っていた。いい感じって、何⁉
まだ先生は何か説明してくださっていたが、私がうつ伏せになって足をプラプラさせているのを見て、彼は口を閉じた。ふふふ、と困った表情で片付けをし始めた。
血の巡り。生きている人間なら必ず返ってくる反応。健康な身体だと正常な反応が返ってくるが、健康ではないと反応に違和感がある。先生はことあるごとに『僕は反応を整えるだけだ』とおっしゃっている。
整えるだけで、治してはいない。治すのは患者様自身の身体だ。
この病院は薬を使わないことでも珍しいと言われている。呼吸を楽にする薬、不安を和らげる薬、いろんな薬があって、私達妖精の涙はそういう薬にもたぶん使われるのだろう。
先生の説明は難しくて、感覚的なもので、誰かに教えて伝えることも難しい。
もし先生が死んだら、今受け持っている患者様たちは露頭に迷ってしまうかも。
「私も先生に治してもら……整えてもらった身なので、これからもずっと先生に生きててほしいです。また辛くなった時に先生がいてくれないと困ります」
私が言うと、先生はふと黙った。
「そうですねぇ。でも僕は生き物ですし、いつか死にます。その時、君が辛くならないように、自分で心穏やかに生きるためのコツを知ってもらわないといけませんね」
黒より淡い鳶色の瞳から目を逸らす。
私は過去を回想し、ズキリと心が痛んだ。今、先生に触れられるわけにはいかない。先生は「心」に触れることができるので、私の身体に触れたら「心」にも触れることになる。悲しいということがバレてしまう。
「過去を振り返っていますか?」
びっくりして先生を見ると、真っ直ぐに私を見つめていて息を呑んだ。曖昧に笑う。
「過去を振り返ることが多くなるということは、あまり良い兆候ではありません。健康でいる時は過去ではなく「今」と真摯に向き合っていますから」
「……ちょびっと思い出しただけです」
「そうですか」
うつ伏せからむくりと起き上がり、私は長い巻き毛で口元を覆った。努めて明るい声で指摘した。
「プリン、そろそろ蒸し上がっているんじゃないですか?」
先生がちらりと砂時計を見る。あと少しで砂が落ちそうだ。
「雛」
呼ばれてたちまち心臓が跳ね上がる。たまに呼ばれるこの名前は先生が付けてくれたものだ。いつもは君、なのに時々これで呼ばれる。心がぎゅうっと鷲掴みにされるような感覚になる。心配されているのだ。
先生がプリンを冷やすためにゆっくりと立ち上がった。慌てて私も見たいですと肩に乗せてもらう。
のろのろとプリンをバットに並べ、透明なシート(ラップというらしい)を被せ、のろのろと冷蔵庫にしまった。たぶん私が落ちないように動作をゆっくりにしてくれている。
先生の優しさが嬉しかった。
(つづく)
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