【連載小説】「心の雛」第十二話
昔から、人とぶつかった時などに意識が途切れることが多かった。
孤児院で育てられた僕は、両親はもちろん自分がなぜそこに存在するのか、ずっと分からないまま生きてきた。はるか昔の話である。
「心くん。ほら、◯◯くんと手を繋ぎなさい」
散歩の時間などははぐれないように手を繋ぐことが強要された。仕方なく手を繋ぐ。興味もない僕と同じ孤児の子の感情が、すぐに僕の中に入り込んできた。
笑っているにも関わらず、触れてしまうと途方もないくらいの悲しい気持ちが自分に流れ込んでくることもあり、困惑ばかりしていた気がする。
幼い頃はまだ良かった。思春期頃になるともっと複雑な感情に変わってきた。秒単位でコロコロ変化する感情に僕は戸惑った。手を繋がずとも、肩が、肘が、ぶつかっただけで「心」に触れてしまっていた。
孤児院には親がいない子供たち、寮母がいて、様々なルールがあって、勉強もあって、それなりに楽しいところだったと思う。
人と触れ合わなければ不思議な感覚にはならない。人と馴染んでいないと自覚しながらも、一線を引いて差し障りのない程度に過ごしていたように思う。
僕のその性質気が付いて教えてくれたのは寮母だった。
知人に同じような人がいたのだという彼女は、知人の経験談を僕に語り、僕だからできそうなことをと、心の病を治す道を示してくれたのだった。
後になって知ったのだが、知人は、心の病を治す途中で自分が病にかかり、自殺したと言う。
人の心は治せても自分の心は治せない。そのことに絶望した知人は生きることを諦めた。
それを僕に告げる寮母。忠告なのだろうか。僕は素直に受け取った。
死にものぐるいでどうにか医師になり、尊敬できる師匠の元でたくさんの患者様の治療に携わった。次から次へと患者様がやって来る。自分の中にあらゆる悲しみ、辛さ、不安、怒りという負の感情がどろどろと渦巻いているのを日に日に感じていた。
「心! だいじょーぶかぁー」
師匠は一緒にいて働きやすい方だった。自分からぽんと僕の肩に手を乗せ、そのまま瞬時に整えてくださるような方だった。僕は師匠に何度救われたか分からない。
「お前、まーたプリン食ってんのか!」
「プリン代、高くね? 自分で作ればいいじゃん」
「情けねぇ顔してんなぁ。人は人、自分は自分! ちゃんと線引けよっ」
僕とは対照的に、日焼けをして豪快に笑う師匠。白衣の中の両腕は筋肉でパンパンに盛り上がっており、師匠と並ぶと僕はたいそう貧弱な若い男だった。
師匠は心の病の業界でもかなりの有名人で、よくよく話を聞いてみると寮母の知人の先輩に当たる方だった。彼が自殺したことも知っていて、師匠自身は僕のような性質はないもののいろいろと思うことがあったようだった。
捕獲ちゃん、と師匠が絡み合ったのはその後のことだ。
「ほかくちゃん?」
妙な名前のそれに、僕は素っ頓狂な声をあげた。師匠が苦笑いをする。
「まぁ、仮名称だがな」
「はぁ。それに、どうして師匠が声をかけられたのでしょうか」
「ひでぇ話なんだ」
当時、まだ捕獲ちゃんが狩りの現場では使われていなかった頃、精神疾患をはじめあらゆる医療業界では薬の研究に巨費を注ぎ込まないといけない状況にあった。患者が多すぎるのだ。それに治りも遅い。
妖精の力に目をつけられるのも時間の問題だったのだろう、と今なら思う。
「妖精……なんて、おとぎ話でしょう」
「それは一般論だ」
「というと……」
妖精というものは存在する。それは医学会では既に証明されていることだった。涙や生き血の研究も進められている。
「生き血って……。いや、蛇酒とかコブラ酒とかありますけれど」
「それは血じゃねぇ。ある地方では豚の血で炒める料理とかはあるけどよ。まぁ事実そういうものが特効薬になるって既に実証されているんだよ」
それと師匠が何の関係があるのか。僕の聞いた話はこうだった。
当時の捕獲ちゃんは未完成で、実用化が急がれていた。
生き血の採取だけなら殺すだけで良い。問題は、涙だった。
妖精を狩る際、確実に涙を流させるために泣かせる方法を提案しろということだった。手段は問わない。どんなに残忍なやり口でも構わないから、常に人間の需要を賄える量の涙を、採取する構造を作り上げろというものだった。
心の研究者のトップに立つものであれば、涙を流させない方法も効率的に流させる方法も、知っているだろうというのだ。
僕は無言で珈琲に口をつけた。僕や師匠が目指すものは、そういうために使われるものではないはずだ。
「心。悪いが、俺は俺の心の思うままに行こうと考えている」
「心の……思うまま……」
僕は師匠の言葉を繰り返した。
「そうだ。本当はずっと心の側にいてやりたかったが……、残念ながら俺の立場ではできないらしい」
そう言って、師匠はフッと自嘲気味に笑っていた。
『強くなりな』
師匠が最後に僕に残した言葉はそれだった。
上層部からの依頼を拒否した師匠は非国民の罪に問われ、社会から抹殺されてしまった。
(つづく)
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