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第1話

 人間と同じく猫にも派閥がある。
 おっと失礼。私の名はペイザンヌ。都内はN区にねぐらを持つ野良猫だ。
 私たち猫というものはまず単純に大きく二つに分けることができる。野良猫と飼い猫だ。まあ、もっと細かく言うのであれば、その野良猫の中でも一派を組む連中がいたりするが結局のところノラはノラ、それ以外の何者でもない。
 例えばギノスなどがそれにあたる。
 ギノスはことあるごとに一匹猫である私とぶつかるN区のボス猫だ。
 そしてイシャータはメスのシャム猫であり、彼女は飼い猫であった。
 飼い猫にいたっては、その飼い主が貧しいか裕福かなど関係ない。肝心なのは誰かに飼われているというブランドである。
 イシャータは飼い猫の証である「首輪」をちらつかせながら今日も商店街を闊歩していた。そして私たちノラを眺めては憐れみに下げずみ、さらには同情のリボンまで掛けて話しかけてくるのだ。
「あら、大変ねぇ。今日もそんなとこで残飯あさり?」
 そんな嫌味のひとつも慣れてしまえばどこ吹く風、ギノスはただフンと鼻を鳴らしただけだ。だが今日のイシャータはやけにしつこかった。
「なんだったら明日は私んちのゴミ箱をあさる? 今夜は御主人様たちがパーティーするはずだからいつもより上品な食事がとれるかもしれなくってよ」
 ギノスもここでキレてはノラのプライドがすたると不敵に笑う。
「言いたいことはそれだけか? だったらさっさと行ってくれ。せっかくの魚の骨がその臭いシャンプーの匂いでだいなしになっちまう」
 一方、イシャータもそんな挑発には乗ってこない。
「さすがにカルシウムだけは足りてるみたいね。ま、そりゃそっか。骨しか食べてないんだもんね」
 イシャータはそう言うとツンと上を向き、つまさきを立てて優雅に歩き去った。そんな一部始終を見ていた私にギノスが話しかけてくる。
「聞いたか、ペイ? 人間に飼われるとああまで堕落しちまうもんかね。スカしやがって」
 いつもは敵対している我らもこの時ばかりはノラという名のもとに仲間に戻る。これが派閥だ。結局、敵というものは必要悪なのかもしれない。

 それから数日が過ぎた。 
 私はいつもの日課で「電車」を見ようと駅の方に向かっていた。電車を見るとなぜかワクワクするのだ。人間たちが毎日あんなに並んでまで乗りたがるほどだ。さぞかし楽しいものなのだろう。いつか私も乗ってみたいものだ。そんな想像を巡らせながら歩いていたときイシャータの姿を見かけたのである。

 鉢合わせするとまた面倒なので私はそろりそろりと気づかれないように通り過ぎることにした。だが、その時──私は妙な違和感を覚えて立ち止まった。何かがおかしい。
 私は知っている。イシャータがいま腰を下ろしてるのは彼女の飼い主の家の前だ。それはいい。自分のうちの前に座っていて何が悪い。だがそれでも──やはり何かががおかしかった。

 その時は気づかなかったが、次の日もまた次の日も石像のように同じポーズで座り込んでいる彼女の姿を見て私はようやくその答えを自分なりに見つけた。ガレージには車もない。新聞も届かない。日に日に荒れ放題になっていく玄関口を見て私は理解した。この家にはもはや人は住んでいないのだ──と。

 イシャータは捨てられたのだ。

【2】

「そんなことあるもんか。旅行にでも出かけてるだけだ。それにしても私のご飯も置いてかないなんて、そそっかしいな御主人様は。ひょっとして驚かそうとしてんのかな?」
 家族の声がしなくなって三日、イシャータはそんな仮説をあれこれ妄想していた。
「そうだ、そうに違いない。なぁんだ。まったく子供っぽいな御主人様は 、あは、あは、あははは──」
 だが猫の想像力にも限界がある。これ以上明るいイメージなど逆立ちしても出てきそうになかった。
 ときおり通りかかる人間たちが食べ物を渡そうと手招きすることもあったがイシャータは頑なにそれを拒んだ。飼い猫としてのプライドが許さなかったのだ。
 だが、待てど暮らせど彼女の「御主人様」が帰ってくる様子は微塵もなかった。イシャータは自分の前足を見つめた。自分の足は嫌いだった。自分が下を見てる証拠だからだ。そんなことを考えていた。

 その日の夕方、とうとうイシャータは重い腰を上げる決意をした。立ち上がったその瞬間から彼女はノラになるのだ。
 そんな決意の中でも容赦なく腹は減る。そのことがイシャータの屈辱にさらに拍車をかけた。
「こんなに悲しいのにお腹がすくなんて、なんてカッコ悪いんだろ」
 生まれてこのかた空腹感など味わったことのないイシャータはその珍味を苦々しく噛みしめていた。あてなどあるはずもなくイシャータの足は自然と〈ギンザ通り〉と呼ばれる商店街へと向いた。野良猫たちのテリトリー。彼女のかつての散歩道。
「とにかくあそこに行けばなんとかなるだろう。ノラたちはいつもあそこで何か食べてるし」
 だが、その日に限って町はやけに清潔感に溢れているように見えた。歩けど歩けど食べ物どころかゴミひとつ落ちてない気がする。そもそも腹が減ってから食料を探すことが間違いなのだ。体力のあるうちに確保しておくべきだったと後悔してもすでに遅かった。
 突然、原付バイクが角から現れた。慌てて飛びのき、なんとか避けることができたがイシャータはそのまま脇道にへたへたとしゃがみこんでしまった。
 それが功を成したわけではないが、低い姿勢にあるイシャータの目が自動販売機の下に落ちている“あるもの”に気付いた。
「あれは……お金だ! それも千円札だ。御主人様たちがこれを使っているのをよく見たことがある。食い物と交換できる魔法のチケットだ!」
 イシャータは腕を伸ばし、爪でそれを掻き出すと口にくわえた。
「とにかくお腹さえいっぱいになれば、いい考えもきっと浮かぶだろう」
 微かな希望と束の間の安心ではあるが、それでも今のイシャータの心を軽くさせるには十分な材料だった。まるで体まで宙に浮いているようだった。
 が、それは気のせいではなかった。
 気が付くとイシャータは四人組の小学生の一人に首根っこを持ち上げられていたのだ。
「見ろよ、やっぱり金だぜ」
「千円じゃん、ラッキー!」
 子供たちは残酷にも彼女の最後の希望を奪わんとしていた。イシャータは千円札をくわえたあごに力を込め、必死に抵抗した。
(──これを奪われるわけにはいかない!)
「こいつ、離さねえぞ。くそっ!」
 小学生とはいえ彼女にとっては巨人だ。必死に耐えてみせるがそもそも体力が著しく低下している。イシャータは地面に頭を押さえつけられ無理やり口を開かせられると千円札を奪われてしまった。挙げ句には横腹に蹴りまでお見舞いされ道端に転がった。
「何か食おうぜ!」と、小学生たちは無情にも走り去っていった。
 みじめだった。
 イシャータは絶望的な気持ちでしばらくの間立ち上がることさえできなかった。

【3】

 N区のそれほど長くないギンザ通りという商店街を抜けると十字路にさしかかる。さほど客の入ってないパン屋の向かいにはあまり警官の立っているのを見たことがない交番があり、イシャータはその脇に座り込んでいた。
 先ほど蹴られた横腹がうずく。
(このまま今夜も何も食べらないのかな……)
 そんなことを考えていると、ふいに聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。
「イシャータさんじゃないですかあ! どうしたんですか、そんなとこで?」
 イシャータの後輩格であるナナだった。彼女はアメリカン・カール種のロングヘアーであり、そしてもちろん飼い猫であった。
「ナ、ナナじゃない! ごきげんよう」
 イシャータは咄嗟に立ち上がり、空元気をしてみせる。
「なんだか元気ありませんね?」
 ナナはやや後ろに折れ曲がったカール種特有の耳をピクピクと動かした。
「ううん、ちょっとね……ホラ、私、その……そう! ダイエットしてるの。だからお腹が、その……」
「やだぁ~イシャータさんたら。それ以上スリムになってどうすんですかぁ? あ~あ、私もシャムに生まれたかったなぁ」
 食べ物を恵んでくれなんて口が裂けても言えない。そんなことをするくらいなら飢え死にした方がマシだ。イシャータはそう思った。
「あ、御主人様が呼んでるから行かなきゃ。また遊びましょうね。ごきげんよう」
「ナ、ナナ!」
「?」
 ナナはきょとんと首を傾げると、その悪意なき瞳でじっと見つめ返してきた。
「う……そうね、また遊びましょ」
 ナナは舌で口の周りをペロリと舐め、走り去った。
 もうすぐ夜がやってくる。皆が活動し始めると食料の争奪戦はさらに過酷さを増すだろう。しかしこのままでは空腹で眠ることさえできない。
 あまり気が進まないがイシャータは最後の手段に出ることにした。

「おや、高級スペアリブの匂いがするな」
 ギノスはポリバケツを漁りながら言った。
「まったく、あんたたちってどこに行けば残飯にありつけるのか肌でわかってるのね。ホンっト感心するわ」
 それはイシャータが今できうる渾身の皮肉と本音のハーフ&ハーフだった。
「近寄んじゃねぇ」
「な、なによ! ノラがどんなもの食べてんのか見てるだけじゃない」
 ギノスの目がナイフのように光る。野良猫に“ノラ”など、黒人を“ニガー”と呼ぶようなもんだ。怒らせてどうする。
「…………なかすいてん…………」
「?」
「だから……」
 イシャータはもう全てがどうでもよくなってきた。
「おなかすいてんのよ!」
 想定外の言葉にギノスは目を丸くした。この言葉のどこに皮肉が隠されているのかを注意深く探してみるが、どうにもピンとこない。
「つまり、なにか? おまえさんはこれが食いたいってそういうことか?」
「た、たまにはね。ノラが……普通の猫がどんなもの食べてんのか……社会勉強ね、つまり、その──」
 そんなイシャータの言葉にギノスの嗅覚は快楽的要素を嗅ぎとった。
「はは~ん。なるほどね」
「な、なによ」
「見てみろよ、この鳥の骨なんかまだきっちり肉までついてる。柔らかくて、じんわり口に広がっていく……ん~、この味──」
 イシャータはごくりと喉を鳴らした。
「首輪だな」
「へ?」
「そのチリチリ不快な音を鳴らす赤い首輪と交換ってのはどうだ?」
 イシャータは戦慄した。
 これは御主人様がくれた大切なものだ。いやそれ以上に物心ついた頃から一緒に育ってきた、いわば体の一部ともいっていいものだ。今となっては全ての思い出がこの首輪に詰まっていると言っても過言ではない。今となっては──
「…………」
 今となっては──何なのだ? これを付けていれぱ御主人様は戻ってくるというのか?
(それは……ない──)
 イシャータは奥歯をかみしめた。
「……わかった。いいわ」
 イシャータは口と爪を使い器用に首輪を外した。首輪の下の皮膚が生まれて初めて外気に触れたようにひやりとする。
 それを口で拾い上げ、ギノスの方に放り投げる。
 ギノスは勝ち誇った顔でイシャータを見つめ、足元に転がる赤い首輪をしげしげと眺めると、おもむろに太い後ろ足でぐしゃりと踏みつけた。
 イシャータの細い体がビクリと震える。まるで自分自身の体が踏みつけられたようだった。
 ギノスはその圧倒的優位を満喫するとフンと鼻を慣らし、右の前足でイシャータの首輪をそのままドブに払い落とした。イシャータは思わず顔をそむけた。
「俺様は約束は守るたちだ。あとは好きにするがいいさ」
 ギノスは愉悦の限りを尽くすとそう言って踵を返した。
 月。
 汚れきった体。
 荒らされたゴミ袋。
 ドブに沈みかけている自分の首輪。
 どれもこれもが、現実味に欠けている。
 イシャータはとぼとぼとゴミ袋に近付くと前足を突っ込み、食べられそうなものを引っ張り出した。三日振りの食事だというのに全く味などしない。
 だが、次第に増殖してくる屈辱感の中、イシャータは鳥の骨や魚、野菜、果ては食物かどうかさえわからないものまで無我夢中で貪り始めた。明日を生きるため過去の首輪と引き換えにした、その食料をがむしゃらに、ガツガツと、貪り続けた。そして誓った。この悔しさを決して忘れてなるものか、と。

【4】

 私の名はペイザンヌ。N区の野良猫だ。
 猫は自殺をしない。これは猫に限らず大抵の動物たちがそうである。
 何故か?
 それは“気づき”がないからである。私たちのほとんどが“自分の命を自ら絶つことは可能である”という考えに結びつかないのだ。

 だから私たちは死ぬまで生き続ける。それがあたりまえだからだ。たとえどんな苦境や受難に遭ったとしても、ただひたすら生きのびる方法を考え、探し求める。
 イシャータもまたその一匹だった。
 私は彼女が自分の家の前にぽつりと一匹座り込んでいるところから現在まで、ずっと様子をうかがっている。
 どうして助けてやらないかって?
 それが人間の浅はかなところだ。ならば聞くが”今日だけ“助けてあげてなんになるのだ?

 彼女がもし、これから先もずっと野良猫として生きていくというのなら、彼女自身がその方法を見出だす他ない。中途半端な同情はそれこそ命とりになりかねないのだ。私だってN区に単身一匹でやってきた時にはそりゃ……おっと、昔の武勇伝を語るのはオヤジへの第一歩だ。今日のところはやめておこう。

 さて、イシャータのことだが、ギノスによって自尊心をズタズタにされた彼女は翌日、朝一番で活動を開始した。商店街を一番よく見渡せる屋根に上り、そこに腰を下ろしたのだ。
 彼女はそこで……なにもしなかった。
 いや、なにもしなかったというのは正しい言い方ではない。彼女は“観察”をしていた。

 私はこの行動にイシャータの将来性を感じ、唸った。普通であれば、窮地に陥った際に起こすアクションは慌てるだの走り回るだの、事態を悪化させることの方が遥かに多い。
 その数多の選択肢からイシャータが選んだのは解決に最も程遠いと思われがちな”観察“だった。思えばこのときイシャータはもっともっと高いところから自分自身の姿まで観察していたのかもしれない。

 本当を言えば、そこは私が日向ぼっこや昼寝をする際のお気に入りの場所なんだがなぁ。まぁ少しくらいは大目に見てやるとするか。
 今わたしにしてやれることといえばそれくらいなのだから。


 イシャータは瞬きする間も惜しんで、街の一日の流れを掴もうとしていた。他の猫たちの行動、その範囲、さらに誰と誰が仲が良く、そして悪いのかを確認した。
 もちろん猫だけではない。どんな人間がいて、いつそこを通るのか? 魚屋にいつトラックが着き、肉屋がいつゴミを捨てるのかまで。こと細かに目を張り巡らせる。
 そんな中、イシャータの目は空き地で地面をゴソゴソと掘っている一匹の猫を捕らえた。

 昨晩の記憶が鮮明に甦ってくる。間違いない。あれは憎きギノスだ。何をしているのだろうと目を細めて見ていたがどうやらあれは、どこかで調達してきた食料を地面に埋めているらしい。

 昨夜の復讐であれを掘り返して食ってやろうかとも思ったが、そんなところを見つかったら今度こそどんな目に遭うかわかったものじゃない。イシャータはぐっと歯を食いしばり、しばし下界から目を上げた。遠くで電車が走っているのが見える。
 広い。

 ほんの束の間だが、イシャータは穏やかな気持ちになった。そして改めて思った。
「できないことをやろうとしても無理だ。今、わたしがやれることをやろう」
 一陣の風がイシャータの細いひげをさっと揺らした。
 
 その気持ちが流れを呼んだのか、今日の食事はなんなく確保することができた。交番近くのねぐらに戻ろうとした時のことだ。交差点で信号待ちしている軽トラの荷台から魚がボトボトと五尾ばかり落ちてくるではないか。おそらく発泡スチロールに詰め込みすぎたのであろう。「鮮魚馬場」と書かれたそのトラックの運転手はそんなことには気づかず、信号が変わるとそのまま走り去って行った。

「ねぐらが近くて助かった」 
 イシャータは尾ひれをくわえ五尾とも持ち帰ることに成功した。一日中、飲まず食わずで”観察“を続けていたイシャータは昨晩ほどではないにせよ空腹を感じていた。魚を見つめくんくんと鼻を鳴らす。
「ああ、これで今日はエサを探さなくてすむ。節約すれば二三日持つかも」
 だが──
「食べてしまえば、それでおしまいだ……」 
 イシャータは考えを巡らせた。これはきっと神様が私に与えてくれたものに違いないわ。もし私がその神様だったら、この五尾の魚でイシャータに何をしてほしいと願うだろう?

 そして日中の考えを反芻してみる。
 私が出来ることと、出来ないこと。
 イシャータのお腹がぐぅと鳴る。出来ることってなんだろう? そして──
 イシャータはハッと気づいた。全ての流れが一点に集中したかのように思えたその瞬間、イシャータはさっと一尾の魚をくわえると走り出していた。「そうよ、出来ないことなら教えてもらえばいいじゃない! そして今私に出来ることっていったら──」 
 また、お腹の虫がキュウと鳴く。
「我慢しか、ないじゃない」

【5】

「出来ないことなら教えてもらえばいいじゃないか」
 イシャータは偶然手に入れた五尾の魚を先行投資することにした。昼間の”観察“のおかげでおおよそ誰が何を得意分野としているのかの見当はついていた。

《魚 魚 魚 魚 魚》

 まず、イシャータが訪れたのはN区でも指折りのハンターと言われるサビ猫、キャンノのところだった。その毛並みは近くで見れば見るほど美しい茶色と黒の混じりあったべっこう飴のような色をしていた。
 足もとに置かれた一尾の魚を見てキャンノは少し考えている様子だった。
「別段食べ物に不自由してるってわけじゃないんだけど」
 彼女のこの応えをイシャータはある程度予測していた。自分で狩れるのだから食いものなんかで釣られるはずがない、と。
「ま、お互いメス同士だし。助け合わなきゃね」
 イシャータはホッと息をついた。交渉成立だ。

  おそらくは自分の得意分野を誰かに語りたいということもあったのだろう。キャンノは自慢の鋭い爪を見せながら狩りのなんたるかを熱く語ってくれた。
(さすがは商売道具だ!) 
 手入れを怠ってないのか、その爪はマニキュアでも塗ったかのように光輝いていた。彼女の講釈にイシャータはメモをとるかのように、ふんふんと頷く。
「そうそう、あの時のネズミったら私よりも大きかったんじゃないかしら」
 時折見せるそんな自慢話にもイシャータは嫌な顔ひとつ見せずに相づちを打つ。機嫌を損ねてはいけない。

《魚 魚 魚 魚》

 基本的にメス同士は助け合うというのがネコの本質だ。
 二尾目の魚は植物に詳しい三毛猫のサラに渡した。サラは身体が小さいせいかあまり狩りはしない。しかし彼女はどの草が食べられ、どの草が危険なのかを誰よりも知っていた。

 アロエやチューリップ、またはジャガイモの茎なども猫にとっては良くないことをイシャータは初めて知った。サラはその細くも響きのよい声で植物以外の栄養なども教えてくれる。
「イカなんかも腰を抜かしちゃうから食べちゃ駄目よ。アワビなんかはもっての他! 耳がポトンと腐れ落ちちゃうんだから!」
 可愛い顔して恐ろしいことを言う。
 とはいえ、海産物が大好物であるイシャータにとっては聞き捨てならぬ言葉だった。思わず耳を押さえてぶるりと震えが走る。金輪際イカとアワビには近づかないようにしよう。

《魚 魚 魚》

 三匹目の魚はオスであるにも関わらず人間に媚びを売るのがうまい白地に黒のブチ猫、ミューラーのもとに渡った。ミューラーはノラのくせにエサのほとんどを人間からもらうことでまかなっている。ミューラーは肉球をペロリと舐めるとチョイチョイとヘアスタイルを整え、言った。
「いかに自分が腹が減っていて可哀想なのかをアピールするのがコツだ」
 イシャータはまるで女優であるかのごとく演技指導を受けることになった。ミューラーは魚をムシャムシャと頬張りながら「違う違う、わかってないな。もっと、こう”しな“をつくってだね……」と体を触ってくる。 
(ベタベタ触るな、この野郎!)
「私はあなたが好きですよ~、みゃお~ん、て感じで」
 なんだかバカバカしくなってきた。イシャータは少しイラッとしたが頭を震わすとミューラーに対してとっておきの愛想をしてみせた。
「そうそうそう、いいね。そんな感じ!」
「ホント? 嬉しいっ! ミューラーさんって凄く教え方が上手なのね。なんだか尊敬しちゃう」
「いやぁ、なぁに、エヘ、エヘヘ」
 ふむ……なるほど。これが演技か。

《魚 魚》

 さて、残る魚はあと二尾だ。
 実際ねぐらとの往復で疲れも見え隠れしているのは否めない。このまま食べてしまっても構わないし、正直次の場所に行くべきかどうかイシャータはずっと迷っていたのだ。

“その手段”を使うかどうかは別として、今後のため知識として知っておくにこしたことはないんじゃないか? いわば貯金のようなものだ。そう言い聞かせイシャータは意を決してもう一匹だけ訪ねることにした。

 その一匹とはギノスの手下であるロキだった。彼はキジトラであり、俗に言う“泥棒猫”だ。主に人間の家に忍び込んでエサを奪ってくることを専門としている。
「おまえ捨てられたんだってな」
 ロキはそう言うとニヤニヤ笑った。こういうところはボスのギノスにそっくりだ。朱に染まればなんとやらである。

「そうさな、侵入しやすい馬鹿な人間の家は山ほど知ってる。それに同じノラのよしみだ、少しくらい情報を流してやったって構やしないさ。なあ、イシャータ」
 ロキは“ノラ”のところに強いアクセントを置くと意味ありげに視線を落とした。
「……だが、魚一匹ってんじゃなぁ」
 イシャータは心の中で舌打ちすると、目を細めた。
 この業つくばりめ!──
 二尾とも渡すとなると本当に自分が食べる分まで無くなってしまう。そもそも、これはそうまでして手に入れるべき情報なのか?
 イシャータは迷った。ダメだ。最後の魚は渡せない。
「この一匹は担保のようなものよ。あなただってどうしてもエサに困ることあるでしょ? その時にはまた必ず食糧を提供するから」
 そう言ってはみたものの、もちろんイシャータにそんな当てなどあるわけがない。ロキは品定めするような目付きでイシャータの体を舐め回すようにジロジロ眺め、鼻を鳴らした。
「フン、まあ、いいだろ。だが、もしこの俺を騙したらギノス様が黙ってないってことも肝に銘じておけよ」
 ロキに凄まれたイシャータは、まるで人間がいうところのヤミ金に手を出してしまったような心持ちになりゴクリと喉を鳴らした。約束を守れなかった場合、どんな目に合わされるかわかったものではない。

 かくしてイシャータは四尾の魚と引き換えに四つの情報を得た。交番近くのねぐらに戻る途中、今現在の欲望を我慢して明日に繋げた自分をちょっと誇らしく思いもした。
 そんな矢先。イシャータは見てしまったのだ。道脇の路地で、まだ歩くことさえおぼつかないような子猫がミャアミャア鳴いているのを。
 その甲高い声がこう要求しているのは明らかだった。
「何か食わせろ」と。

《魚》

 ねぐらに戻ったイシャータは最後の一尾を見つめ、どうすべきか考えていた。
──どうするだって? 食べるに決まってるじゃないか。
 だが、先程の子猫の鳴き声が耳に焼き付いて離れない。イヤなものを見てしまった。あの子も捨てられたのだろうか? 
 イシャータはぐるぁにゃあと鳴いた。
「だって、私だってお腹すいてんだもん! あの子は……きっと誰か優しい人間が拾ってくれるさ、そうに決まってる」 
 イシャータは大きく口を開け、最後の魚にかぶりついた。

 一口だけかじられた魚が子猫の前に落ちた。
 イシャータは子猫の体をペロペロ舐めてやると魚にかぶりつき、口の中で柔らかくほぐしてやった。子猫はまだ目も開かぬほど幼い。くんくんと匂いを嗅ぐと、やがてそれをゆっくり食べ始めた。
 これでいいんだとイシャータは無理やり納得することにした。ようやく芽生え始めた自分への誇りを自ら潰してしまってどうする。何があってもそれだけはしたくなかった。それに答えるかのようなタイミングで子猫はイシャータをちらりと見上げミャアと鳴く。
 イシャータはその顔を見て恨めしそうに言った。
「半分くらいは、残してよね……」

 もうすぐ朝がやってこようとしていた。

《魚 = 0》

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第2話


第1話
(本編となります)


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