第3話
──神様、許してください。私じゃなくて”佐藤“のためなんです。
『聞いておいてよかった』と『聞くんじゃなかった』が交錯する。悔しいことに泥棒猫ロキの情報は正しかった。その一軒家の一階にある子供部屋の窓はまるでイシャータを手招きするかのごとく無用心にも開放されていたのだ。
そこからイシャータは家の中に忍び込み、顎を上げるとヒゲをツンと立てた。人間の気配は感じられない。
そろりそろりと辺りに細心の注意を払いながらなんとか台所まで辿り着いたが、その間にイシャータはあることを確信することができた。砂のトイレに“爪とぎ”──間違いない、この家では猫を飼っているのだ。
ならばある。子猫が食べても差し支えないような栄養たっぷりのエサが、必ず。イシャータはキッチンの中央に置かれたテーブルにそっと飛び乗った。そこから辺りを見回すと冷蔵庫の上に懐かしいラベルの缶詰めを発見した。〈猫まっしぐら!〉だ。あれなら美味しく、消化にもいい。
イシャータはテーブルから冷蔵庫の上に跳び移ると缶詰めを口にくわえようと格闘を始めた。が、つるつるしてうまくいかない。ついには口が滑って缶詰めを床に落としてしまった。
──しまった!
缶詰めは鈍い音を立て床に落ちるとコロコロと転がっていき、やがてぶつかって止まった。一匹の猫の足に。
後ろに折れ曲がった特徴のある耳、アメリカンカールのロングヘアーの“飼い猫”──
イシャータは背中に冷水を垂らされた時のように全身の毛がぶわりと逆立つのを感じた。
「ナナ………………」
まさか、ここがナナの家だとは夢にも思っていなかった。
ナナの方も驚きを隠せないようだった。
「イシャータさん……?」
恥ずかしかった。
顔から火が出るほど恥ずかしかった。
おそらくこの場にもっとも不必要なものがあるとすればそれは”説明“と“言い訳”だろうな、とイシャータは思った。
だからこそイシャータが冷蔵庫から飛び降りてすれ違いざまにナナに小さく告げたのはたった一言だけだったのだろう。
「ごめんね……」と。
それと同時に素早く転がった缶詰めをくわえると、イシャータは逃げ去るように侵入してきた窓のへりに飛び乗った。
「イシャータさん!」
イシャータはビクッとしたが今度はもう缶詰めを落とすことはなかった。そしてもう一度だけナナを振り返った。
「イシャータさん、また……遊びましょうね」
そう言うナナの目はどこか泳いでいるようで決してイシャータの目をまっすぐ見つめて来ようとはしていなかった。つまり──
ナナは本気でそう言っているわけではないのだ。体のいい社交辞令。はぐらかし。それでもそのことについてイシャータが悲しいと思っているかといえばそれは否だった。
なぜなら、もしも自分とナナが逆の立場だったとしたらきっと“私”だってナナと同じ態度を示すに違いないということをイシャータは痛いほど身に染みて理解していたからだ。
もしもその時、イシャータの口が缶詰めで塞がっていなかったならおそらく彼女はこう答えていたに違いない。
「ごめんね、ナナ。私、もうあなたとは遊べないの……」と。
イシャータは再び外の世界へキッと顔を向けるとそのまま窓の下へと飛び降りた。もし“ノラ”である自分と一緒にいる姿を誰かに見られたら、きっと他の飼い猫たちはナナのことも白い目で見るだろう。下手すればもう仲間に入れてもらえないかもしれない。
イシャータはどうして今、自分が悲しくないのかがその時少しだけわかったような気がした。
こうやって一度捨て猫になってしまえばあっさり断ち切られてしまう友情。それが今まで一緒にいた仲間たちの正体であり、実は本当に悲しむべきはその現実の方だからではないか? そして今現在、その激しい憤りに対する抵抗ができるとすれば、それはナナに対して“自分の方から“身を引いてあげることくらいしか思いつかない。
間違ってる──
走りながらイシャータは今まで自分がノラたちにしてきた仕打ちや言動を思い起こしていた。今、憎むべきはナナだとか飼い猫だとかそんなことでは決してない。
過去の自分だ。
イシャータはようやく立ち止まった。
昼から夕へと変貌をとげようとしている空に二本の飛行機雲がゆっくりと垂直にのびていく。
──あの二本の細長い雲はいつかどこかで交わり合うことがあるんだろうか?
その様を眺めながらイシャータはいつしかそんなことを考えている自分に気付いていた。
ともあれ、目的は達成した。
これで『佐藤』に精のつくものを食べさせてあげられる。
そんなことを思いながら帰りついたイシャータだったが、ねぐらの近くまで来ると誰かの気配を肌で感じ、再び警戒体制に入った。それは“佐藤”のものでも、当然自分のものでもない。
そっと中を覗き込む。そして、その気配の正体を目の当たりにしてイシャータは少なからず驚いた。
「なにやってんの!」
叫んだ拍子にくわえていた缶詰めが落ちて転がる。今回それを止めた野太い足。それはギノスのものだった。
ギノスは別段驚いた様子も見せず低い声で唸った。
「おまえこそ何やってんだ。このチビスケにいったい何食わせやがった?」
ギノスの足元では佐藤が一心不乱に缶詰めを食べている。〈猫まっしぐら!〉とラベルにプリントされた缶詰めを。
「弱っちいうめき声が聞こえたんで入ってみりゃチビがまいってるじゃねえか。仕方ねぇからロキや三下どもにガキ用の食い物を調達させたってわけだが──」
その時のイシャータといえばまるで鳩が豆鉄砲を、いやむしろ、猫が水鉄砲を浴びせかけられたような顔をしていたに違いない。
ギノスは足元に転がってきた缶詰めに一瞥をくれ、続けた。
「おっと、もちろん“蓋の開いた”缶詰めをだがな。……で?」
いつぞや首輪を踏みつけた時のようにギノスはまたしても冷ややかな目でイシャータの”戦利品“を同じ目にあわせた。
「……おまえさん、缶詰めをどうやって開けるつもりだったんだ?」
「あ……」
イシャータは自分のバカさ加減に少し呆れた。
「あんたこそ、どうして──」
「こいつがいっちょまえのノラになった時のためさ。後の子分の面倒をみるのもボス猫の務めってな」
そう言うとギノスはダミ声で高笑いを始めた。
「誰があんたなんかの……!」
そう言ってはみたもののさすがのイシャータも今日のところは素直に負けを認めざるを得なかった。言葉尻に詰まったイシャータはたった今必死に盗んできた缶詰めをチラリと見つめ、自分でも吹き出してしまった。なんだか意味もわからずだんだん可笑しくなってきたのだ。
そして『そう言えばこのギノスがこんな風に笑っている姿を見るのは初めてかもしれないな』──そうも思った。
イシャータがクスクスと声に出して笑い始めるとギノスはギノスでなんだか調子が狂ったような不思議な顔をする。ひょっとしたらギノスも自分と同じことを考えているのかなと思うとイシャータはますます笑いが込み上げてきた。
“佐藤”は何事かとちょっと顔を上げ、イシャータとギノスの顔を交互に見たが、しばらくするとまた缶詰めに顔を突っ込んだ。
イシャータは笑った。久しぶりに大声で笑った。そして、笑いながら『この子がもしも、いつか誰かに飼われるようなことになったとしたら、その時はやっぱり私たちの“仲間”ではなくなってしまうのかな……』と、少しだけ考えた。
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