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第9話

 月明かりだけが照らす寝室の中で、イヌヤマのお婆さんは横になっていた。

 庭ではまだ猫たちがミャアミャアと騒いでいる。『猫屋敷』などと呼ばれるようになってはや幾年、ここでもうどれくらいの数の猫を面倒みてきたことだろう。いや、ひょっとして面倒をみられたのは自分の方なのかもしれない。

 オーストラリアのとある研究所で行われた調査によると心臓病の危険があると診断された人たちのうちペットを飼っている人の血圧はペットを飼っていない人の血圧に対して2%も低いことが明らかにされているという。

 それほど猫しかり『パートナー』たちの存在は、知らぬ間に蓄積された人間のストレスを癒してくれる力を持っているということだ。だが──

 死期を前にした猫がそれを察知して何処かへ行方をくらましてしまうのと同じく、犬山のお婆さんも自分に“それ”が近づいていることをわかっていた。

 今朝起きた瞬間、今日がいつもとは違う「特別な日」なのだと──これが最後の目覚めなのだと──はっきり、どこかで感じたのだ。

 お婆さんは猫たち一匹一匹の顔を思い浮かべつつ、身寄りのない自分のもとに訪れた最初の一匹のことを思い出していた。

(あいつぁ本当に、まるでじいさんと入れ替わるようにやってきよった──)

 お婆さんの記憶が鮮明に蘇ってくる。グレーの毛並みが陽光に照らし出されると銀のように光る。りんとしてこちらを真っ直ぐに見つめてくるその猫。

(……にゃん吉──)

 お婆さんはいつの間にか声に出してその名前を、呼んでいた。半開きの襖のところになにやら黒い影のようなものが座っているのが目に入った。

「おまえ、にゃん吉かえ──それとも“お迎えさん”の方かの?」

 お婆さんは体を動かすことなく呟いた。影はくすくすと笑っているようにも見えた。

「婆さん、俺は”にゃん吉“なんてカッコ悪い名前、御免こうむるって言ったろ? 俺の名前はヴァン=ブラン。それが“本当の名前”だ。生まれた時、鳥たちに名付けてもらった大切な名前だ」
「そうそう、あんたは”にゃん吉“って呼んでもちっとも返事しなかった──」
「間に合ってよかった」

 窓から差す月明かりがヴァン=ブランの毛並みを銀色に変えた。アメリカンショートヘアの血を持つのか、ところどころに独特のストライプタビーの柄が浮かんでいる。

「あんたは追い出しても追い出してもまた戻ってきた。おまけに捨て猫を拾ってきたり、怪我をした猫を拾ってきたり──」

 ヴァン=ブランは首を傾げた。

「そうかと思えば、ある日突然いなくなって──」
「俺もオスだからな、旅に出る必要があったんだよ」

 お婆さんは心臓がきゅっと締め付けられるのを感じて呻いた。

「ワシはもう……死ぬんかいね?──」
「ああ、そうだな」
「そうかィ──」

 銀色の猫はあの時のようにこちらを真っ直ぐ見つめている。

「婆さん、オレたち猫は九回生まれ変わるから死が何かをよく知ってる。ちっとも怖かないよ。もともとそこにいたんだ。もといた場所に帰るだけだ。いいね、ちっとも怖くなんかないんだぜ」

 お婆さんの顔が苦痛に歪む。急激な痛みが襲ったのだ。銀色の猫はそれを和らげるかのごとくお婆さんの枕元に近付き、囁き続けた。

「きっと生まれ変わったらまた会える。オレが必ず婆さんを見つけ出してやるから安心しろ。そしたら今度はオレが婆さんの世話をしてやる──約束する」

 その淀みのない声に安心したのかお婆さんの顔がふっと緩んだ。

「人間の一生は長いからな、お疲れ様。ありがとな、婆さん……」

 やがてヴァン=ブランはその水晶のように透き通る声で静かに静かに歌い出した。お婆さんが大好きだった歌を。


「よろしく、サトーにイシャータ」

 イシャータと佐藤を取り囲む猫の群れから一匹の黒猫が前に出てきた。

「新しい仲間ができて嬉しいよ。僕はフライ、よろしく」

 すかさずミリーが間に入る。

「フライはね、私たちのリーダー的存在なの」

 佐藤は鼻をヒクヒクさせ黒猫のフライを見た。ミリーの真っ白な毛並みとは対象的に全身真っ黒である。ただ額に一ヵ所だけ白い部分があるのが特徴的だった。まるで目が三つあるようにも見える。

「リーダーだなんて。ここにそんな上下関係なんかないよ、ミリー。皆が平等で楽しく暮らせる、そんな場所なのさ」

 そこに割って入ってきたのは巨漢のデブ猫だった。デブ猫は自らをメタボチックと名乗った。

「フライの言うとおりだ、何事も楽しくなきゃね。今日は特別な日だし、こんな上物も用意してある」

 メタボチックはズルズルと歯みがき粉を引っ張ってくると、ポンと音を立てキャップを外した。

「さあ~みんな、やってくれ。ライヨンのクリミカ虫歯プロテクトだ!」
「おお!」と、どよめきが沸く。
「すごいじゃない、メタボ。どこでこんなの手に入れたのよ」
「へへ……さぁ、ギリーもやってくれ。これだけじゃねえぞ、見ろよこれ」

 メタボチックは洗剤の箱の上にポンと足を置いた。

「こ……こりゃあ“トッポ”じゃねえか。しかも〈部屋干しタイプ〉だぜ!」と、誰かが騒ぐ。

 ミリーは歯みがき粉のチューブに足を乗せ、にゅるりと中身を押し出した。そして鼻を近付けると匂いを嗅ぎ、恍惚の表情を浮かべる。

「ああ……きた、きたわ」
「な、なんやのんコレ?」

 ミリーはトロンとした目であははと笑うと佐藤の鼻先をペロリと舐めた。

 佐藤はドギマギした。

「嗅~げ~ば、わかるのら。ホラ、佐藤も。さいっこぉ~の気分になれるのにゃ」

「な、なれるのにゃって……」
「い~から~、ホラ、ね?」

 ミリーの押しに負け、じゃあちょっとだけ、といった感じで佐藤は歯みがき粉に鼻を近付けた。その瞬間──

 強烈なミントの香りが佐藤の後頭部に突き刺さり、チクリチクリとひとつひとつの点が頭全体に広がっていく。まるでガラスの上にスポイトで垂らした幾つもの水滴がぽつぽつと繋がっていくかのように“ほわん”とした刺激が増殖してきた。

「うは……うはは、なんやこれ。おもろいな、うひひ、なんか楽しくなってきよった……うひゃひゃ」
「ねっ、最高でしょ。うふふ」
「さ、佐藤──」

「うひゃひゃ“佐藤”やて。うははは、それ以上おもろいこと言わんといてぇなイシャータ……ひー、ひー、し、死ぬ」

 佐藤は仰向けに寝転がり、ぐねぐねと手足を動かした。

 猫にとって歯みがき粉や洗剤に混じるミントの類は身近で手に入るマタタビのようなものだ。その効果は十分ほどしか続かないとはいえ、イシャータも飼い猫時代によく酔っぱらった記憶がある。

「さあ、イシャータも楽しんで。今夜は君たちの歓迎会なんだから。人間だって祝い事の時は酒を飲むだろ?」

「そーやぞ、ネーちゃん。ま、ま、ぐっと一杯かけつけ三杯」

 完全に出来上がった佐藤が絡んでくる。

「サトー、歌ってよ。わたしぃ~、また、あなたの歌が聴きた~い! みんなぁ、サトーはねぇ、すっごく歌が上手なんらろ!」
「いいぞ、歌え歌え!」と、皆もけしかける。
「よっしゃ、気分ええから歌ったる!」

 やがて──

 夜の静寂に甘美な歌声が響き出した。聴くものを魅了してやまないその声。闇に光をくべ、魂の隙間を泳ぐようなその……。

(今日は我ながら上手く歌えとるわ……って、アレ? ボクこんな上手かったっけ?)

 そう、残念ながらその歌声は佐藤のものではなかった。皆は一斉に歌声の聴こえてくる母屋の方へ顔を向けた。

「………………」

 急激に酔いが醒めたようにミリーは母屋の方へ走り出した。皆もミリーに続く。その一団につられるように後を追うイシャータにある記憶が甦った。

(この声には聞き覚えがある……)

 と、いうよりそれは一度聴けば忘れることの方が難しい声だった。

 そして、その”答え“はイヌヤマのお婆さんの寝室にいた。

「ヴァン……?」

 イシャータの心の声を代弁したのは他ならぬミリーだった。

 銀色のヴァン=ブランはその歌声をほこに収めると、皆の方を振り返った。

「よお! 久し振りだな、ミリー、フライ、みんな。それに──」

 一匹のシャム猫が視界に入ると、ヴァン=ブランが浮かべていた笑みが一瞬真顔に戻った。

「……イシャータ?」

 おそらくは『なんでこんなとこに?』と続くはずだったその言葉はまるで蝋燭の炎が消える時のようにふっと闇に溶けていった。

 黒猫のフライは恐る恐る一歩、また一歩とお婆さんの寝床に近付いていった。

「死んでる……?」
「ああ、たった今亡くなった」

 お婆さんの頬には涙がつたった跡があった。まるで乾いた砂漠にほんの束の間流れた川の跡のようだった。だが、その口元はやすらかに笑っているようにも見える。

 一番最後に寝室に顔を出したのは酔っ払ったままフラフラと皆の後を追ってきた佐藤だった。

 重い空気が非常事態を告げる中、佐藤の目に入ったのは銀色の猫を見つめるミリーの姿だった。そしてその銀色の猫といえばイシャータを見ており、さらに当のイシャータはその視線を避けるかのごとくうつむいている。

 その三角形がいったい何を意味しているのか佐藤には皆目わからなかった。

 ただひとつだけ確実なことがこの場にあるとするならば、それは、今ここに三十匹の“集団野良猫”が誕生したことに他ならない。


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第10話

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