第14話
【イシャータ】
(また、彼の歌が聞こえる……)
飼い猫時代のイシャータはベッドの傍らで御主人様と一緒に眠りにつくのが常だった。
真夏の夜風が少しだけ開いた硝子戸のレースカーテンをふわりと膨らませる。イシャータは御主人様が寝静まったベッドからそっと飛び降りてそこからベランダへと出た。“飼い猫”の証である赤い首輪がチリンと揺れる。
初めて歌声が聞こえたのもこんな満月の夜だった。月はあれから二度姿を変え、みたび完璧な円を夜空に描き出している。
六十日が過ぎ、九十日を迎えたのだ。ということはヴァン=ブランが宣言した『百日』まであと十日ということになる──
【ペイザンヌ】
「おい、ペイ! 見ろよ、あのシャムだ」
若き日のヴァン=ブランは目をギラつかせ、わたしに言った。
「イシャータ?」
「ふーん、イシャータっていうのか」
「イシャータは”飼い猫“だろ?!」
「だからどうした。愛にノラも飼い猫もあってたまるか」
「愛ね……」
「なんだよ。俺は本気なんだぜ?」
「クローズの時もそう言ってたじゃん」
「もちろんあの時だって本気さ。しかしだ、いいか、俺はフライに勝ったんだぜ? なのにクローズはフライのやつを選んだ。こんな理不尽な話ってあるか?」
「試合に勝って勝負に負けることもあるのだ」
「うるせえな! だから俺は負けてないんだって! だったらおまえは何か? 愛ってやつは永遠で? 一生に一度きりで? そいつが報われなきゃその後はずっとクヨクヨしてなきゃなんねえってのか? フン、そんなのは俺の性に合わねぇな」
「そうは言ってないだろに」
「見てろ、俺はイシャータを必ずオトしてみせるぜ。クローズなんかより何倍もいいメスだ」
ヴァンはそう吐き捨てるとイシャータの後を追いかけた。
「やれやれ……」
わたしは首を振るしかなかった。
【ヴァン=ブラン】
その日は雨だったが俺は道の真ん中に突っ立っていた。先ほどのフライとのバトルで体中が傷だらけの泥だらけだった。シャワーにはもってこいの雨だ。
正直クローズがフライのやつを選んだことはショックだった。
なぜフライなのか? どうして俺ではダメなのか? 俺とフライの違いは何なのか?
まるで自分の存在全てが否定されたようで空に八つ当たりしたい気分だった。
(……へへんだ。こんなんじゃ、ちっとも堪えねぇな。もっと鍋でもひっくり返したように降らせてみやがれってんだ──)
所詮はフラれたことに対して酔いしれたかっただけだ。わかってはいるのだが俺は二日間だけ自分にクヨクヨするのを許すことにした。
だが二日だけだ──それでもまだウジウジしてるんなら俺は自分で自分を呪い殺してやる。
あいつが俺の前を通り過ぎていったのはそんな時だった。突然の雨に降られ家路に急ぐ飼い猫のシャム。
シャムはご丁寧にもこの豪雨の中を立ち止まって俺の方を振り返った。
「あんた、バカじゃないの? 何そんなとこでボーッと突っ立ってんのよ」
初対面のオスにそれだけの言葉を突然ふっかけてくるとはたいしたタマだ。俺は少し目を丸くしたが、なんだか可笑しくなった。何故ならそれは現在の俺の心のうちを叱咤するような言葉でもあったからだ。
「別に濡れたって死にゃしねえよ」
俺はいわゆる買い言葉というやつを返す。「バカね、耳の中に水が入ると大変なんだから」
俺はふふんと笑ってみせた。ヒゲをつたって水滴がリズムよく垂れていく。
「やっぱり野良猫|《ノラ》の考えていることはわけわかんないわね。その薄汚い毛並みがもっと汚くなる前に帰った方がいいと思うけど。あら、ごめんなさい、帰るところなんてないのよね」
「俺は別にノラじゃねえよ。“猫屋敷”で飼われてるぜ」
「猫屋敷!」
イシャータはくすくす笑った。
「あぁ、あのお化け屋敷みたいなとこね。ノラの人間がノラの猫を集めてるだけじゃない。あんなの飼われてるなんて言えないわ」
「まあ、そうかもな」
俺があっはっはと笑い飛ばしたのでシャムのやつめ、面白くないらしい。
「もういいから行けよ。いつまでも俺なんかに付き合ってるとおまえこそ風邪ひくぞ」
「…………」
逆に同情されてさらに気分を害したのか、シャムは露骨にフンと横を向き雨の中を走り去っていった。気の強いメスは嫌いじゃない。
(クローズに似てるな……)
一瞬そんな思いがまた頭によぎる。雨のやつは俺の罵倒に腹を立てたのか、いっそう激しさを増しつつあった。
【ミリー】
お婆さんがシャッターを押す瞬間、ヴァンはふざけて私の頭の上に前足を乗せた。
「なにすんだよぉ!」
ヴァンはあっはっはと笑った。ヴァンは最近機嫌がいい。よく笑うし冗談も言うし遊んでもくれる。
ヴァンが笑いかけてくれると私は幸せな気分になる。それもたくさんたくさんだ。この気持ちを音にするとどんなだろう?
ほにょほにょ?
ふにふに?
言葉ではうまく言い表せないや。でも──私は知ってしまったのだ。どうして彼の機嫌がいいのか、その理由を。
ヴァンはこのところ毎日深夜になると”猫屋敷”を抜け出してどこかへ行ってしまう。だからある晩、私はヴァンのあとをこっそりつけてみることにした。体が大きくスピードも速いヴァンについていくのは子猫の私には至難の業だったが、それでも時々月が照らし出すヴァンの銀色の毛並みを目印にして必死に後を追いかけた。
ギンザ通りの商店街を抜け、横断歩道を走り、塀を飛び越え、やがて住宅街に辿り着くとヴァンはとある一軒家の庭に入っていった。
──これからなにが始まるのだろう。
私は少し離れたところからヴァンの姿を見張っていた。
ヴァンはしばらく二階の窓を見上げて何か物思いにふけっているように見えた。やがて夜の静寂にヴァンの歌声が溶けていく。それはいつ歌い始めたのか気付かぬくらいに自然だった。まるで眠っている誰かを起こさぬように、いやむしろ──まずは夢の中にそっと忍び込み、そこから優しく呼び掛けるように……。
あの武骨で暴れん坊のヴァンが歌っている時だけはまるで音符の妖精のようになってしまう。
物語にある『鳥のヴァンブラン』が愛するトリルのために奏でた歌はきっとこんな感じだったに違いない。私は何故自分がここにいるのかすらも忘れて、しばしヴァンの歌声に耳を傾けてしまっていた。
(この歌を私のためだけに歌ってくれたらどんなに素敵だろう──)
でもヴァンはいつも私のことなど子供扱いだ。私がちょっと成長したかと思えばヴァンもまたちょっと先へ行く。いつまでたっても追いつけやしない。
(私の周りだけ、もっと時間が速く流れてくれればいいのに……)
そんなことを考えていた時だった。二階のベランダでチリンと鈴の音がして私は現実の世界に引き戻された。
顔を出したのはシャム猫のイシャータだった。
私は自分の中で何かが音をたてて崩れていくのをハッキリ感じた。この目の前に置かれた風景の意味を理解するのにさほど時間はかからない。この”間違い探し“の答えは子猫の私でも簡単に解ける問題だった。
ヴァンはヴァンで幸せの音色を奏でていたのだ。そしてその音は私の中の音とは決して重なり合うことはないのである。
【イシャータ】
(また、彼の歌声が聞こえる──)
イシャータは御主人様が寝静まったベッドからそっと飛び降り、ベランダに出た………………
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第15話
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