第13話
ミリーは昨夜からどうも様子がおかしい。佐藤はそう考えていた。
“何が”かといえばよくわからないのだが、あまり姿を見かけないし現れたかと思えば貝のように口をつぐんだままだし──
今朝だってそうだ。
「おはよう」と、挨拶しても、その顔に浮かんだのはまるで社交辞令の様な笑みだけで、さっとどこかへ行ってしまった。
そもそも出会って三日ほどしか経ってないわけだからミリーの心の内などわかるはずもないのだけれども、何というのか笑顔の種類が違うのだ。
──何故だろう?
佐藤はミリーを探しつつも、今度顔を合わせた時もまたあのとってつけた笑顔だったらどうしよう?──そんな恐れをどこかで抱いていた。いっそのことこのまま見つからない方がいいような気さえした。
だから和室でミリーの白い毛並みが視界に入った時も佐藤は思わず一度部屋の前を慌てて素通りしてしまったのだ。佐藤は立ち止まり、思わず頭をプルプルと振る。
──そんなことあれへん。ミリーはボクのこと友達や言うてくれたやないか。きっと虫の居どころが悪かったか、眠たかったんか、昨夜の”歯磨き粉“が残ってただけや。
自分にそう言いきかせると、佐藤は 勇気を振り絞ってミリーが佇む和室の中へと足を踏み入れた。
「あ~、ミ、ミリー」
ミリーはゆっくりとこちらを振り向いたが、その表情は佐藤が振り絞った小さな勇気に対して見返りがあるほどのものではなかった。
「き、奇遇やね。こんなところで会うなんて」
アホなこと言うとるなぁ──と、佐藤は自分でもそう思ったが、咄嗟に出てくる言葉が他に思い付かなかった。
「写真……」
ミリーは床に広げたミニアルバムにポンと足を乗せた。
「お婆さん、私たちの写真をホラ、こんな風にちゃんと整理しててくれたんだね」
そこにはこれまでここで暮らしていた猫たちの写真が収められていた。それを見た佐藤はハッとなった。
(そうや、ボク、自分のことばっかり考えとった。ミリーはお婆さんが死んでもうて哀しがっとるんやないか……)
ようやくこんがらがった糸がほどけたような気がして佐藤の心に少し晴れ間が浮かぶ。「へ、へぇ~、そうなんやぁ。ど~れどれ、ボクの写真もあるんかいな?──って、あるわけないがなっ! ……ハ、ハハ……」
ちゃうやん。
佐藤はまた思考を巡らせる。
──ここで言わなあかんのは『お婆さん、本当にみんなのこと想っててくれたんだね……(標準語)』とか、そういう気のきいた台詞やないのけ?
そんな思いが頭の中でさっきから二周も三周もしている。そしてこうも思った。
『なんで、こんな一言一言が重いんやろ』と。さらにはなぜか『あのヴァンって奴やったらこんな時、なんて言うんやろ?──』そんなことが思わず頭に浮かんだ。
「その傷どうしたの。 大丈夫?」
そうかと思えばミリーはこんな優しい言葉をかけてくれる。佐藤はそのたび完成途中のビルを壊し、新たに土台から建設しなければならない気分だった。
「ちょ、ちょっとな。ハッシュのアホがけったいなこというさかいこらしめてやったんや!」
そしてオスというものは何故か言わなくてもいい余計なことまで意気揚々と語ってしまうのである。
「でもな、ボクが勝ったんやで! まあ、ぜんぜんあいつなんか相手にもならへんけどな」
「そう…… 」
そして大抵の場合、オスがメスに期待する言葉はこうだ。
(──まぁ、すごいのね、サトー!)
(──素敵、見直しちゃった、サトー!)
そんな類の言葉である。
「喧嘩はよくないよ、サトー。私、乱暴な猫ってあんまり好きじゃないな……」
そう。そして大抵の場合、そんな幻想は無惨にも打ち崩されるのである。
もはや改めて土台を築く気力すら失った佐藤を残し、ミリーはそのまま和室を出ていこうとした。すると──
いつから聞いていたのか、ヴァン=ブランが戸口に座り込んでこちらを見ているではないか。
「そんなことはないぞ。オスにとって闘いは必要不可欠だ」
「ヴァン……」
ミリーの口はそう動いたように見えたが果たしてそれが声になっていたのかは微妙なところであった。場の空気の揺れが収まらぬうちにミリーはその場から逃げるように走り出していた。
ヴァン=ブランは「ふむ」と唸ると、そのままずかずかと部屋の中に入ってきた。
「サトーとかいったな。今朝はいい闘いっぷりだった。おまえはなかなか筋がいい」
「そらどうも……」
「?」
佐藤は軽くため息をついた。
「はは~ん」
「な、なんですのん?」
「さては、おまえ」
「だ、だからなんやねんな、もう。気持ち悪いな」
ヴァン=ブランはあっはっはと笑った。
「うん、ミリーはいいメスだぞ。純粋だし、性根が優しい。ちと、子供っぽいところもあるがそこもまた魅力だ」
「ボ、ボクは別に! ちゃいまんねんな、その……」
「オス同士だ。隠すことはなかろう。……ん?」
ヴァン=ブランは足もとのアルバムに目をやった。
「婆さんのやつ、こんな写真を後生大事に持ってたのか。こりゃ懐かしいな! 見ろ、俺がまだおまえくらいだった頃の写真だ」
色褪せたその写真にはこまっしゃくれた顔をした腕白ざかりのヴァン=ブランが写っていた。
もう一枚はミリーとのツーショットだ。写真の中のヴァン=ブランは欠伸をしながらミリーの頭の上に前足を乗っけている。一方、ミリーは納得のいかない顔でヴァンを見上げていた。
「たいていの連中もそうだが、ミリーも俺が拾ってきたんだ。熱中症でぶっ倒れてたのを見つけてな。ミリーのやつ、まだオスかメスかの区別もつかないな、こりゃ傑作だ」
そうやって器用にページをめくっていくヴァン=ブランと一緒になって写真を眺めていた佐藤は”あること“に気付いてしまった。
ヴァンが映っているほとんどの写真には決まって隣にミリーの姿があったのだ。
網戸に蝉がとまった。
大きなクマゼミだった。
佐藤はいつかのミリーの言葉を思い出していた。
(私、歌の上手な猫って好きよ──)
あれは………。
──ボクのことやあらへんかったんや。
佐藤の心のどこかに、これまで存在しなかった感情がムクムクと、音を立てながら芽生え始める。そして、その音は熊蝉の鳴き声を掻き消すほどに、今、急速に大きさを増しつつあった。
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