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第5話

 ジョン・レノンは名曲『GOD』の中でこう言った。「神とは概念であり、我々の痛みを計るためのメジャーなのだ」と。

 だが、私は神でも人間でもない。
 猫だ。
 N区にねぐらを持つペイザンヌという野良猫だ。

「否定する」ということは実に容易い。
 その気になれば今日にでもこの世の全てを否定してみせよう。だが、それはやめておく。いつでも出来るのなら、そんなのは死ぬ間際にでもすればいいからだ。

 またアンネ・フランクはこう言った。
「私はどんなことがあっても人間の〈善〉を信じている」と。

 あの年齢であの状況下、これだけのことが言えたのはたいしたものだと思う。
 だが、私は猫だ。人間じゃないのでよくわからない。しかし猫の〈善〉を信じている──

「こんにちは!」

 だからそちらはそちら、人間同士で確かめ合ってもらう他ない──

「こ~んに~ちは!」

 そんなことを考えながらお気に入りの場所で日向ぼっこをしていた時のことだ──

「こんにちわったらこんにちわ!」

 あ~、イシャータ?
 これはまだ前置きであって本編ではないんだがなぁ。しかも久々にわたしのカッコイイ“語り”の場面だというのに……。

「こんにちは!」
「はいこんにちは」
「いい天気ね」
「いい天気だねえ」
「私もよくここで日向ぼっこするの。あなたも?」
「ほほう、私もよくここで日向ぼっこするんだ。キミも?」

 これはもはや二の句を継ぐというよりも挙げ足を取るに近いなと我ながら思う。

「あなた、ペイザンヌよね」
「うむ」
「私のことは……知ってるわよね?」
「イシャータ」
「私ね”ノラ“になったの」
「知ってる」

 どうにも私は会話を終わらせるのが得意らしい。イシャータもどう接触していいのか考えあぐねているようだ。

「ねえ、ペイザンヌ……ペイって呼んでも怒らない?」
「うむ」
「あなた、お腹空いてる?」
「空いてない……と、いえば嘘になる」

 イシャータはそんな、言葉を発しながらも、目は下界に据えたままだった。ターゲットを絞り込むノラの目だ。

「今なら残り物じゃなくって新鮮な魚が食べられるかもしれなくってよ」
「んぁ?」
「ついてきて」

 イシャータはそう言うと屋根から飛び降り、私も思わずそれに続いた。だが次の瞬間、私はイシャータが狙いをつけている標的を知り驚いた。そこはN区でも最もガードが固いと言われる魚屋だったからだ。

 馬場トミオ、三十三歳、独身──彼が個人で営む『鮮魚馬場』に手を出して無傷で戻った猫は少ない。
 
 カエルとヘビ。キングコブラとマングース。そして猫には馬場、と言われるほど、我々にとっては最大にして最強の天敵ラスボスだった。

 かくいう私だってつい最近、特大の出刃包丁で大事なヒゲをバッサリやられたばかりだ。

「あ~、イシャータ。君はまだN区の、ノラことをよくわかってない。ここはだな……」
「いいから」

 イシャータは笑みを浮かべると私についてこいと促す。まあ、多少痛い目をみるのも人生経験、いや猫生経験かもしれない。

 わたしはいつでもダッシュできる準備を整え、さりとて内心ヒヤヒヤしながら、イシャータの後に続いた。

 そもそも馬場がいない時を狙うならまだしも今は夕方のカキイレドキだ──ありえない。自殺行為である。こんなことは猫を大好物とするポッテカ族のど真ん中に葱を背負って行くようなものだ。

 だが、イシャータは「くださいな」と言わんばかりストレートに行った。それはそれは可愛らしく『うにゃ~……にゃ~ぐる』と、馬場に面と向かって鳴いたのだ。

 馬場と店の前に群がる客の目が一斉にこちらを向いたその時だ──見間違いではない、私は見たのだ、包丁を握る馬場の右腕に太い血管が浮かんだのを。

 私は見るに見かねて前足で目を塞いだ。が、耳に飛び込んできたのは意外な言葉だった。

「あ~ら、これはこれは、ネコちゃん二匹がごらいて~ん」

 客がどっと沸いた。

「今日は活きのいいのが入ってるよ! サバにスズキに……財布が許せばイカやアワビなんかも……どうかしらん?」

 また、買い物かごを下げた主婦たちが揺れる。が、イシャータは「イカやアワビ」という言葉に対し不満げにブルブルと首を振っていた。

「アワビはお嫌い?! こりゃ失礼しましたっ。シャムちゃん、人生の半分損してるよっ。よし、持ってけ泥棒! 脂の乗ったハマチだ、ほれっ」

 馬場は柵になったハマチの切れ端をひとつ、景気よく、そしてにこやかにこちらへと投げた。

「二匹で仲良く分けるんだぞ。火事と喧嘩はよそでやってくれ。ここは天下のN区だ!」

 ありえない。
 あの馬場が売り物の魚をネコに放るなんて──天変地異が起こってもそんなことはありえない。

「まいどありっ。さぁさ、奥様方もこのネコちゃんたちに負けず劣らず活きのいいのジャンジャン持って帰ってよね~!」

…… よね~、よね~、よね~ …………

 馬場の声がまだ耳に木霊している。

「さあ、食べて」
 イシャータはとろりと脂の乗ったハマチを差し出した。
「私はさっきいろいろ食べたからいいの。フランクフルトやらなんやら。ま、引っ越し蕎麦みたいなものだと思って」

 私はまだ納得いかず、魚を爪で突っついた。毒や爆弾が入ってないとも限らない。いや、むしろ入っててくれた方がまだ納得がいくような気がする。

「これからもよろしくね、ペイ!」

 そう言うとイシャータは満足気に走り去った。

 ジョン・レノンは名曲『GOD』の中で言った。「私は魔法マジックを信じない」と。だが、今日のこれはいったい何なのだ? ジョン。

 だがこれが魔法マジックではなく手品トリックであるとするならばどうだろう。そこには必ずタネ明かしがあるはずだ。

 これは後々、偶然入手した馬場の日記の一篇なのだが、今回は特別にそのタネを知りたい方のために『後記』としてそれを載せておこう。

 但し、謎は謎のままにしておくことが醍醐味であるという方はここから先を読まず、次の話にジャンプして頂いてもいっこうに構わない。──と、言いたいところだが物語というものは得てしてこういうどうでもいいところにそれなりの伏線が張ってあったりもするものなので読んでおいても損はないんじゃないかな~とも思われる……


 後記:『馬場の受難』

 私の名は馬場トミオ。三十三歳、独身だ。
 私は今、猛烈に恋をしている。

 相手は、はす向かいのパン屋『メゾン・カエサル』に新しく入ってきた美しい女性店員だ。

 彼女は仕事が休みの日に時々私の店に買い物に来てくれる。

 そんな時、私は……。ああ、母さん。すまない。売り上げとは関係なく破格のサービスをしてしまうこともあったりなかったり──いや、しちゃうことがあるのだ。

 そして彼女がいつもペットとして連れているのが──ああ、神よ、私の天敵である「猫」ではないか!

 んで、私といえば、

「可愛いネコちゃんですねえ。え、私ですか? 私もネコ大好きなんですよ、これが!」

 なんて、言ったり言わなかったり──するわけなのです。

 この葛藤──
 わかっていただけますか? 母さん。
 これも神が私に与えた試練、いや、運命なのですよ。

 今日の夕方も彼女が私の店に来てくれました。

 そんな時!──こともあろうにですよ、二匹の薄汚い野良猫が私の魚を物欲しげに見てるではありませんか?!

 私は包丁を持つ腕に力が入りました。
 しかし、彼女のあの微笑ましく猫を見る目が──そして私を見つめるその瞳が……。

 ええ、バカな男だと思ってください。私はプライドをいっさいかなぐり捨て、愛を選んだのです。ええい、持ってけ泥棒(猫)!

 私は──

 私は魔法マジックを信じる!


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