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第7話

 夢を求め旅立つ者もいれば夢に敗れ旅立つ者もいる。ならば帰ってくる者が答えを知っているかといえばそれは否だろう。

 なぜなら生きている限り旅は続くのだから。
 それは人間でも鳥でも、そう猫だって同じだ。

 鳥といえば近頃やけに彼らがざわつくのを感じる。それが“驚き”なのか“喜び”なのか──鳥の心までわしゃに理解する術はない。

 なぜならわたしはN区に住む野良猫、ペイザンヌだからだ。

 ただ一点、かろうじて鳥たちがこう言っているのだけは聞き取ることができた。それはわたしにも聞き覚えのある、懐かしい名前だったからだ。

『ヴァン=ブランが帰ってくる、ヴァン=ブランが帰ってくる!』と。


「帰ってこない……」

 イシャータは眠そうな目をこすった。

──佐藤のやつ。結局昨晩は帰ってこなかったな。

 まさか佐藤がいないだけで夜がこんなに長く感じるなど思ってなかったため、イシャータはいろんな思いが入り交じっていた。

『少し怒りすぎたかな』

『お腹が空いたら帰ってくるさ』

『まさか事故にでもあったんじゃ……』

 そんなことをいくつも考えているうちに、イシャータはいつの間にかあの御主人様を待ち続けた日々を思い出していた。

「また捨てられたかな……」

 イシャータは苦笑した。するとどうだ。ねぐらの入り口に佐藤がひょっこり顔を出しているではないか。

「佐藤!」

 佐藤はへへと笑った。

「あんた一晩中どこに行ってたのよ! 私……もう、まったく!」
「実はな、荷物をまとめに、きたんねん」
「荷物?」
「イシャータ、ボクな“飼い猫”になんねん」
「あんた、まだそんなこと……」

 佐藤は興奮して続けた。

「ちゃうねんて、ほんまやねん。「猫屋敷」のな、婆ちゃんのとこでうてもらうことにボク決めたんや!」
「猫屋敷?!」
「……あんな、アレやったらイシャータも一緒に来たらええやん。あの婆ちゃんの料理、めっちゃ美味うまいんやで!」
「そんな……私は無理よ。あそこのお婆さんには嫌われてるもの」

 イシャータの脳裏にひしゃくを握ったお婆さんの姿が蘇る。

「とにかく今夜のパーティーにだけでも顔出してぇな」
「パーティー?」
「うん、みんながな、ボクの歓迎会やってくれるって」
「それは……でも」
「な、ぜったいやで!」

 佐藤はそう言うと丸っこい目をパチクリさせ、イシャータの返事を待つことなく慌ただしく飛び出していった。

「さ……佐藤!」

 まったく。
 まとめる荷物なんかありゃしないくせに。

 だが、イシャータは心のどこかでホッとしていた。嫌われたわけではなかったのだ。それどころか、こうして私を誘いに来てくれた。本当は心の優しい子なのだ──

 だが、次の瞬間にはまた気分が急降下していた。イシャータはいつの間にかまた視界に自分の足が入っていることに気付いた。自分の足は嫌いだった。足が見えてるってことは自分が今、下を向いてるってことだもの……。

 そうさ、私なんかといるよりもあそこで飼われた方が佐藤はきっと幸せになれるに違いない。きっとそうだ──

 イシャータは無理やり笑ってみようと試みたが上手にできたとはとても思えなかった。

 
 佐藤はミリーと追いかけっこをして遊んでいた。ミリーを捕まえ、喧嘩のまねごとをしてじゃれ合う。

「で、イシャータさんは、何て言ったの?」
「誘ってみたんやけど……なんか乗り気じゃないみたいなんや」
「そう……」
「あれ? ミリーはイシャータのこと知ってるん?」
「う、ううん、噂で聞いたことがあるだけ」

 佐藤の鼻に蝶々がとまった。ヒクヒクと鼻を動かしクシュンとくしゃみをする。そんな佐藤を見てミリーは笑い、それを機に話題を変えた。

「サトーっていい声ね。透き通るような声だわ」
「ボクが?」

 佐藤はもう一発くしゃみをした。そういえば前にイシャータにも同じようなことを言われたことがあったな、と佐藤は思い返した。

「ねえ、なにか歌ってよ。わたしのために」
「歌? 歌なんかうたったことあれへん」
「なんでもいいから、ね?」
「う~ん……」

 佐藤は思いきって、以前、電気屋の前の有線で流れていた曲を歌ってみることにした。

『Cecillia,you´re breaking my heart──You´re shaking my confidence daily──』

 なんだかチャカポコチャカポコしたリズムが妙に頭に残って好きな曲だった。佐藤は歌っているうちになんだか楽しくなってきてピョンピョン跳びはねながらさらに声のボリュームを上げた。

 それはサイモン&ガーファンクルの『セシリア』という曲だったのだが、そんなことはもちろん、歌詞の意味さえ佐藤にはわかっていなかった。

 やがてミリーも佐藤に合わせて踊り始めたので佐藤はメロディに合わせて適当にアドリブを入れ始めた。

「ギリーはと~ってもダンスが上手いんやなぁ~♪」
「ダンスは大好き! お芝居とかもやってみたいな」
「『Cats』なんか~、え~んとちゃう~ん♪」
「あははは」

 ギリーが声を上げて笑った。

「すごいわサトー! すごく上手。わたし歌が上手な猫って大好きよ」

 佐藤は気分が良くなったが、なんだか照れ臭くなって思わず声が裏返ってしまった。

「よろしくな! ミリーの友達」
「よろしくな、サトー」

 猫たちは佐藤に歓迎の言葉を浴びせかけた。後々聞いてみたところここにはなんと二十八匹の猫がいるらしい。

 イヌヤマのお婆さんの手料理は今日も美味しそうだ。熱々の……といいたいところだがやはりそこは猫舌専用、ツナのおじやにつみれの団子、柔らかく煮込んだマグロの切り落とし。人間ですらよだれが出るほどだった。

 佐藤は辺りをきょろきょろと見回した。

「どうしたの?」と、ミリーが首を傾げる。
「うん……イシャータ、やっぱり来てくれへんかったなぁ」
「そんなこと……きっと”毛繕けづくろい“か何かで遅れているだけよ」

 そう言うとミリーはイヌヤマのお婆さんが一点を見つめている様子に気付き、自分もそちらを振り返った。

「サトー、ほら、見て」

 お婆さんの視線の先には、木の上からこちらの様子を伺っている一匹のシャム猫の姿があった。

「イシャータや! イシャータ、おーい! なにやっとるん、そんなとこで? 降りてきーや!」

 イシャータは少しばつが悪そうな顔をしたが、枝から飛び降りると、まっすぐこちらへ歩いてきた。

「みんなー、紹介するわ。イシャータや。ボクの、その……んーと、何やろな? おばちゃんやねん!」

 イシャータは佐藤を小突いて小声で言った。

「お姉ちゃん!」
「お、お姉ちゃんやねん」

 猫たちがどっと湧いた。

 イシャータはそのままイヌヤマのお婆さんのところへ行き、ぺこりと頭を下げた。

「佐藤をどうかよろしくお願いします」

 イシャータはそう厳かに言ったつもりだった。

 相変わらず気圧けおされるような目だったが、この間より鋭さがないように見えるのは気のせいだろうか?

 お婆さんが動いた。イシャータは思わずビクッと震え、目を閉じた。

──また、追いかけられるのだろうか? それとも打たれるのか?

 どうとでもなれと思ったが、イシャータが感じたのは頭の上にポンと置かれる婆さんの手の感触だった。おそるおそる目を開けると、そこにはくちゃっと微笑むお婆さんの顔があった。

 お婆さんは言った。

「ちぃとはマシな顔つきになったの。おまあさん、てっきりどっかで飼われてるのかと思うたが、そういうわけではないのけ?──」

 さらにお婆さんはイシャータの前に自慢の料理を差し出した。

「食え──」
「え? ……ええ?!」
「ええから食え──」

 ノラになってからというもの嗅いだことのない匂いがイシャータの鼻腔を刺激する。そんなイシャータに佐藤がちょこちょことまとわりついてきた。

「凄いやろ! この婆ちゃんなぁ、ボクたち猫の言ってることがわかるねんて!」

 そんなバカな──とも思ったが心当たりはあった。以前お婆さんが怒ったのは私が『おべっかミューラー』から教えてもらった“演技”で接したからではないか?

 それこそ猫なで声で近づいて、“しな”をつくっておこぼれにあずかろうと下手に出て……。イシャータはあの時の自分が恥ずかしくなった。同時にこんなに優しく頭を撫でてもらったのはいつ以来だろうと考えた。知らず喉からゴロゴロという音が漏れている。涙が出そうになった──

 イヌヤマのお婆さんは立ち上がる時に体が痛むのか、ちょっと顔をしかめたが、そのままゆっくり母屋の方へ歩いていった。

 そして猫たちだけの宴が始まる。ギリーを含む二十八匹の猫たちがイシャータと佐藤を囲んだ。

「よし、騒ごうぜ! サトー!」
「よろしくね、イシャータ」

 イシャータは変わった。

 お高くとまった”飼い猫“から突然“野良猫”の世界に放り出されたイシャータ。

 今やどちらの気持ちも身をもって体験した、イシャータの受難は終わった。


──かのように思えた。

 数時間後、猫たちがイヌヤマのお婆さんの死体を見つけるまでは。


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