絶対と相対

どうも皆さん、今回は相対と絶対についてお話したいと思います。

自然のすべては相対で成り立ってるだの、私という存在が絶対だの、すべての存在に神が内在してるだの、唯一絶対の神がおられるだのと、世の中は絶対か相対かで一々揉めていますね。

結論、すべては絶対でもあり相対でもある、です。

どっちか片方に決めなきゃいけないってのがそもそもおかしいんですわ。量子の性質は波でも粒でもある、或いはパイロット波のようなもんがあって粒がそれに乗っかってる、或いは分岐した可能性が同時に多世界を作りだして存在する、まあどれが正解か知らないですけど、どれにしても量子ってやつは、単純に一種類の性質しか持たないものじゃない。

んでもって、すべての物質はその量子によって成り立ってるのだから、ほんじゃあ波であって粒でもあるなら、絶対でもあって相対でもあるとしても、別におかしかぁ無いんじゃないですかってことです。

「私」という自我が絶対であり、そして「私」という自我を持った別の絶対がある。「私」ともう一人の「私」が出会った時、そこに相対が生じる。つまり「私」とは絶対でもあり、相対でもある。

「物体X」という存在は絶対であり、そして「物体Y」という、また別の絶対の存在がある。「物体X」と「物体Y」がそれぞれ別個に観測された時、そこに「物体X」と「物体Y」の相対が生じる。

ある物体(存在)一つは絶対であり、ある物体(存在)とある物体(存在)は相対である。すべては相対にしなくては説明が付かないが、だからと言って固有の存在を絶対にしてはすべてが相対である説明が付かないということはない。

つまり絶対とは、対象を完全に切り離して考えた概念であり、相対とは対象をありのままに観測した結果である。自然の一環として考えるならすべては相対であると言えるけど、区別を付けないことにゃまともに生存できないんで、自分が生きやすいように自然を加工した結果生まれたのが絶対の概念だ。人は絶対の概念無くして生きていくことは出来ない。

腹が減ったら飯を食べるのは絶対だ。これを相対にすると餓死してしまう。赤ちゃんを死なないように守って育てるのは絶対だ。これを相対にすると人類は滅亡してしまう。法律を守るのは絶対だ。これを相対にするとまともに社会が運営できなくなる。

人の死は絶対だが、どこかでまた人が生まれるので、相対であるとも言える。まあ地球が木っ端微塵に爆散して観測者が一人も居なくなったら絶対も相対も無いんかな。それとも宇宙のどこかには別の知的生命体が居て、そいつらが地球人類と地球の相対になって、そいつら一人一人が絶対になるのかな、それとも観測者があろうとなかろうと、そのまま静かに宇宙は存在し続け、変化し続けるのだろうか。流石にそこまではわからないけど。

太陽も地球も月も、そこに絶対に存在する。しかし、太陽も地球も月も、お互いがお互いを引っ張り合ってるから存在し得る。当然太陽と地球と月だけでそうなってるわけじゃなく、太陽系惑星すべてと、他の恒星、惑星、星系、銀河、別の銀河とすべてがお互いに干渉し合ってはじめて存在し得る。相対でもあって、絶対でもあるのです。

すべては相対でのみ説明が付く、絶対は無い、と言っているものの、すべてが相対だけで説明付くならそれは相対が絶対になっている。こんなのは言葉遊びに過ぎないのです。

古代ギリシャのパルメニデスは「在るものは在り、在らぬものは在らぬ」と主張し、また逆にヘラクレイトスは「万物流転」と主張しましたが、ヘラクレイトスは変わらないモノ「ロゴス」があるとし、パルメニデスも変化するように見えるモノ「ドクサ」があるとしました。

つまり、絶対でも相対でもあるとすればすべて説明が付くのです。何もどちらかに限定する必要は無いのです。哲学史最初期の人物アナクシマンドロスは、万物の根源を「限定されないもの」と表現しましたが、これは決して馬鹿にできたものではないのです。

いつもの量子力学の不確定性原理になりますが、量子の挙動というのは何度似たような原因を作っても結果が同じになりませんが、ある程度の範囲は決まっています。(波動関数)即ち、ある程度の範囲は絶対であり、定まらない結果は相対です。

どっちでも良い、というよりは、どっちかに限定したら説明が付かない、というべきなのでしょうか。同じ原因は同じ結果を生む(絶対)しかし、同じ原因というものはまず生じ得ない(相対)。つまりこんなことは論じること自体がナンセンスなのです。

以上、すべては絶対でもあり相対でもある、というお話でした。


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