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がん患者フリーターになる。

東京の端の端。いわば場末、と呼ばれる地域にある薄暗い市役所で
「非常勤採用試験」を受けた。
顔はきれいだがオスっけはゼロの「いかにも公務員」という感じの試験監督の青年がご丁寧に消しゴムのかすの捨て方までご指示くださった。
冴えない男だと思うけど、この場では
「非常勤試験に必死な人たちに指示を出す、正規職員の公務員」
だとおもうと光り輝く勝ち組に見えた。
受けに来ているのは中年期~初老というかんじのおじさんおばさんたち。
はい、普段は「お姉さん」と呼ばれたい私でも私もその一味であることを認めます。
なんとも言えないみじめな気持ちになった。
ほんとうは大手法人の正社員なのに。
ほんとうは今年外交担当になる予定でもしかしたら出世も近かったかもしれなのに。
勤続15年、会社には大事にされ女性の平均年収の2倍はもらえていたのに。
氷河期世代にみんなが派遣やバイトで甘んじる中努力を重ね、ようやく安定した地位を獲得していた最中なのに。
なぜこんなところで頭を下げて「雇ってください」なんてしなくてはいけないのか。
全ては病気のせい。
ガンになり、治療が長引き、福利厚生でずっと面倒をみてくれていた会社ももしかしたらもうお手上げかもしれないというサインを出してきた。
無職になるわけにもいかず受けに来た。
幸い、不動産収入や債券の利益収入などが月20万円近くあるので、非常勤職員でも生活はできる計算だった。
働く日数は減るから、残り少ないかもしれない余生を彼氏や母との時間に大切に使えるのもいいなあ。今までは仕事ばかりしてきたからなあ。と非常勤職員になるのを結構乗り気で考えてもいた。
「セミリタイア」という響きはちょっと憧れでもあった。
でも、実際試験を受けに来て肌で感じる憎悪は自分でも意外なものだった。
「クオリティオブライフ」なんて言葉があるように、自由な時間、お金、人生設計が大事なのであって立場や年収、住む場所などただの見栄でしかないではないか。
実を取ろう。本当の幸福を世間の枠組みの外で考えよう。世間ではそういう風潮であったし、わたしもそう思っていた。
けれど「枠から外れる」その瞬間、こんなに往生際がわるいのは何だろう。
試験は専門科目に対する課題が出て800字。見ての通り数人しか読者がいないNOTEで2000字を15分くらいで書いてしまう私は持ち時間の1時間は多すぎて、そうそうに書き終わり寝てしまった。
終わったひとから退出する仕組みにすればいいのに。
効率悪いどんくさい市役所め。
そんな恨みつらみを言いながらようやく試験会場を後にした。

町はとても静かでのどか。
近所の農協でやっている地場野菜を買った。
ひさしぶりにてんとう虫を見た。
自然が好きな私はここに住むのもいいなあ。と思った。
家賃も安いし、物価も安い。採用されたら職場も近い。
一時間もあれば都心にも出られる。問題なかった。
賃貸物件を調べたら、今と同じ家賃で新築の広いアパートが借りられそう。
いいじゃないか、収入が減ってもね、正社員じゃなくてもね、山の手じゃなくてもね、余生をね、週3勤務でね、見栄は捨ててのんびりと。
でもどうしても揺らぐ自分がいた。
会社で認められているというのは、お金ではなく一つのアイデンティティであったのかもしれない。
いわゆる山の手という場所に無理して家を構え「お嬢様育ちとして育てよう」という両親の見栄のようなものが非常にうとましく、いつも母に反抗しては実をとらない思想を嘆いていたけれど、結局そういう見栄でアイデンティティを保とうとしていたのは誰よりも自分なのかもしれない。

育った場所や環境、社会的地位などに依存するなんてなんてくだらない。
大事なのは「自分らしさ」であり、「実」である。と思っていたが、すべてを失うかもしれないこの状況で「自分らしさ」とはすべて外部に依存して成立していたことを知る。
昔、海で「宿を失ったやどかり」を見たことがある。背中の貝がなくなってしまっているヤドカリである。その姿はなめくじのようで、宿をなくしたヤドカリは非常に落ち着かない様子で走り回っている。宿があるやどかりはゆうゆうと余裕がある動きをしている。貝はヤドカリの一部なのか外部のものなのか微妙だなと思った。
間違いなくわたしはいま「宿をなくしたヤドカリ」状態である。
会社はフルで復帰をすると宣言すれば受け入れてくれるのは間違いない。
体力的にはかなりきびしいだろうが、どんなにつらくともやはり復帰したいと思うのは単なる見栄なのか、アイデンティティの大切なところを守る行為なのか自分でもよくわからない。

西武新宿線を30分ほど乗り、高田馬場で食べたサムゲタンのとりはエキスをすべてスープに取られてしまってなんとも味気ない味がした。
今のわたしみたいだなあ。なんておもいながら、山手線に乗ると、なんだか懐かしい匂いがした。
わたしの生きる場所はどこにあるのかなあ。

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