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3年間頑張った広報の仕事

長い闘病の末に、パートで働き始めた仕事は、デイサービスの広報だ。

もともと、記事を書く事は好きであった。

小学生の時に、新聞委員を経験した事によって、中学校でも、生徒会から独立した新聞委員をやっていた。

その新聞委員は、どちらかというと、生徒会批判や学校批判など、ちょっと過激な活動だった。

当時、高校受験の闇のような記事を書いたこともあった。

子供の小学校では、広報委員にもなった。

PTAの仕事の中で、広報は、なかなかなりてがいなかった。

当時、まだ、息子福山は生まれておらず、一人っ子のママという立場で、広報に立候補したものである。

その年、息子福山を身ごもるわけであるが、旦那の協力により、広報のデーターの納品を完了した思い出である。

そんな訳で、広報のお仕事は、初めてかというとそうでもなく、もともと好奇心が旺盛なので、取材も丁寧に行い嘘偽りない内容とした。

デイサービスの広報の目的は、家族に向けての利用者さんの様子をお伝えする事だと思っている。

デイサービスのお仕事は広報作りだけではないが、他の仕事は、自分のスキルを発揮して、十分にデイサービスの様子を取材する時間を作った。

デイサービスのホールでの取材は、午後のレクリエーションの1時間だ。

毎回、パートの日の1時間は、デイサービスのフロアに入った。

空気を感じ取る事に集中した。

もちろん、カメラを片手に、

働いていたデイサービスは、大きい組織であったが、自分が所属していたデイサービスは、あまり成績の良いデイでは無かった。

その為、日頃の利用者さんの様子を載せるだけでは無く、営業のような記事を載せる事にした。

それは、機能訓練の様子の記事である。

その記事が多くの家族の目に留まったらしい。

一気に、機能訓練の申し込みが殺到した。

当時、両親の介護をしていた最中であった。

ちょうど、父親の足が悪くなり、父親も機能訓練を中心とするデイサービスに通い始めたのがヒントになった。

足腰が弱ると介護者は、大変だからである。

3年だけだったが、広報の仕事をして面白かった。

でも、自分も限界だった。

介護現場は、どこでもそうなのだろうか、

人の出入りが激しい。

3年の間に、何人の人が入り、何人の人が辞めていったことだろう。

そういうのに疲れてしまったのだ。

スタッフの人たちは、いい人たちばかりだったのであるが、

ハンデがあるので、もう少し、配慮が欲しかった。

見た目が健康そうなので、見えないハンデで、気が付いてもらえなかった。

忙しい職場なので、遠慮をしていたら、自分の息が切れてしまったのだ。

パートに入った時の一年間、人が出来た上司に恵まれたから。

頑張った3年間でした。

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