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世界史漫才再構築版62:フランコ将軍編

苦:今回はスペインに独裁者として君臨したフランコ将軍(任1939~75年)です。
 微:大道芸のついでで数学教えている変な外国人だな。
 苦:それはフランクルだよ! 20世紀スペインの独裁者です! 第2次世界大戦勃発前に中立のふりしてファシズム体制を作り、1975年まで君臨しました。
 微:21世紀にまだ生きているナベツネには負けるな。
 苦:個人的にはチリの独裁者ピノチェト以上に許せない人間のクズです! 反ソ連ならフランコでもマルコスでもスハルトでも、反イランであるならムバラクでも支持するアメリカも最低です。
 微:キミが言うくらいだから、資源ゴミにも出せないクズなんだろうけど。
 苦:放射性廃棄物レベルですね。話を整理します。
 微:断捨離だな。
 苦:キッパリ!と否定します。第一次世界大戦では中立だったスペインですが、戦後は、右派と左派の対立だけでなく、カタルーニャやバスクなどの独立運動もあって混乱が続きました。
 微:まあ、元々が連合王国な上に、ピレネー山脈あたりにナバラ王国やら色々あるもんな。
 苦:いえ、既に19世紀初めのスペイン立憲革命から内部で揉めています。アホ王フェルナンド7世を巡って。
 微:まあバルボン王家の人で、ナポレオンがねじ込んできたホセ1世が遠因だけどな。
 苦:ナポレオンへの抵抗・独立戦争が最初に勃発したのがスペインでした。1812年にはその一環としてカディスで憲法が制定ます。これが「カディス憲法」です。
 微:ナポレオンに抵抗するために憲法を作って嫌がらせしたと。
 苦:その後、ナポレオンの敗退によりホセ1世は退位し、1814年にはブルボン朝のフェルナンド7世が復位するんですが、この王はホセ1世治世の近代的改革もカディス憲法も破棄します。
 微:さすが「何事も学ばず、何事も忘れず」のブルボン朝! 映画『宮廷画家ゴヤは見た』の終わり近くでちらっと映るな。
 苦:ホセ1世即位はラテンアメリカ植民地でのクリオーリョらによる独立運動を活発化させ、1819年までにパラグアイ、ベネズエラ、アルゼンチン、チリ、コロンビアが独立を宣言しました。
 微:そんな背景があったのか。
 苦:話を戻すと、フェルナンド7世はラテンアメリカ独立運動の鎮圧部隊を召集しますが、1820年早々に軍が憲法復活を求める反乱を起こし、スペイン各地で同様の反乱や暴動が続発しました。
 微:ナポレオンを憎んでいるのか、感謝しているのかどっちだよ!
 苦:反乱は首都マドリードにも飛び火し、3月7日にはリエゴ・イ・ヌニェス率いる反乱軍により王宮が包囲され、フェルナンド7世は事態を収拾するためにカディス憲法の復活を宣誓しました。
 微:それで立憲革命なのか。それで保守的クリオーリョが強かったメキシコ、ペルー、エクアドルまで独立したんか。
 苦:革命が急進化すると、フェルナンド7世は神聖同盟に救援を求め、1823年にフランスの干渉軍が越境進軍して自由主義政府を打倒しました。
 微:しかし、それでもブルボン朝というかバルボン朝が好きなんだな。
 苦:立憲革命は挫折し、リエゴ・イ・ヌニェスも処刑されますが、彼はスペイン自由主義運動の象徴となり、彼を称えた「リエゴ賛歌」はスペイン第二共和政時代(1931~39年)の国歌となりました。
 微:長い伏線だったな。ようやく第1次世界大戦に戻ったか。
 苦:第1次世界大戦に起因する経済の停滞にスペインの貧民層は困窮に喘ぎ、各地で反政府運動が激化します。1923年9月にプリモ・デ・リベーラ陸軍大将がクーデタで政権を奪取しました。
 微:20世紀のヨーロッパでクーデタが起こることに驚くな。どこのミャンマーだよ、って。
 苦:力ずくで混乱を鎮めたプリモでしたが、強権政治への民衆の不満は高まり、1930年に退陣へと追い込まれます。
 微:この政治文化はフィリピンに受け継がれているな、腐敗と清新さを求める意味不明な文化。
 苦:王制打倒を目指す共和派や共産党などの左派が支持を集め、1931年に国王アルフォンソ13世は退位・亡命し、「無血革命」で第二共和政が成立しました。
 微:なのに新政府は左翼的な新憲法の下でも政治的対立からデモやテロが繰り返されんだろ。
 苦:また、左派が進めた政教分離政策が敬虔というが頑迷なカトリック民衆の離反を招きます。
 微:まあ、サンチャゴ・デ・コンポステーラ巡礼収入が大きい国だしな。
 苦:政治の迷走と政治的混乱は議会制民主主義への失望を招き、ファシズム政権待望論が日増しに強まります。そこに1935年、コミンテルンによる反ファシズム人民戦線戦術指令が出ます。
 微:コミンテルンの指令がスペインに届いたこと自体が驚きなんだけど。
 苦:結束した左派勢力は1936年の総選挙勝利で、アサーニャ人民戦線政府が成立しました。選挙で勝った人民戦線政府ですが、基本的に左派というかリベラルの寄せ集めです。
 微:いや、スペイン自体がつぎはぎのように癖の強い地域の寄せ集めだろ。
 苦:その通りですが、人民戦線=共和国派と括っていいでしょう、社会主義から議会制民主主義までの幅広い勢力が違いを超えて結集できたのも反カトリックという一致点あってのことでした。
 微:異端審問が最後まで残った国だもんな。サマランカ大学やエスコリアル修道院はすごいが。
 苦:はい、ピカソがパリに出てきた時に一番驚いたのが、街頭で自然にキスしているカップルを見たこと、そしてそれを不道徳とパリ市民が思っていなかったことです。
 微:不道徳なことというか女性遍歴の王者が何言ってんだよ、って言いたいけどな。
 苦:こちらが言いたいのは、人命を軽んじるというか、反体制派や政敵に対するテロ・報復と政治が不可分な政治文化がスペインでは当然だったということです。
 微:専制権力の一番単純な定義が「殺す権力」だから、わかりやすいといえばわかりやすい。
 苦:しかも政治的には社会主義に近いアナーキストたちは1936年に警察を使って保守派の中心人物を暗殺するという方法的には極右というか極左的なことをしてます。
 微:自分で地獄の釜の蓋を開けたと。
 苦:体制側のテロの恐怖を実感した右派は反乱の準備を加速させました。1936年7月17日、モラ将軍を首謀者に植民地モロッコのメリーリャで軍が反乱を起こします。
 微:「みんなイベリア半島に帰りたいかぁ!!」って煽ったそうです。
 苦:アメリカ横断ウルトラクイズかよ!! そこに左派政権からカナリア諸島に左遷されていた要注意人物フランコがモラ将軍の要請に呼応し、モロッコからスペイン本土に攻め上りました。
 微:えっ、モナの要請に応じるって、細野か二岡じゃねえのか?
 苦:そこまでボケなくていいよ、しかも古いし。反乱はスペイン全土の内戦へ拡大していきました。
 微:大多数の人は「どの反乱なのかわからなかった」と証言しています。
 苦:トレド攻略で声望を上げたフランコ将軍が反乱指導者に代わり、ドイツ・イタリアの支援を受けます。モロッコのフランコ軍はドイツの輸送機で本土各地へ空輸されていきました。
 微:しかも空爆の後で空っぽになった爆撃機を利用したんで、「エコだ」と表彰されたんだよな。
 苦:英首相チェンバレンは、内戦が世界大戦を誘発することを恐れて中立を選びます。
 微:ドイツへの宥和政策もあるし、アフリカ植民地独立運動に火が付くのも嫌だしな。
 苦:兄弟とも言えるフランスのブルム人民戦線内閣は閣内不一致で政権は崩壊し、結局はイギリスと同様に中立政策に転換しました。
 微:まあ、フランスに支援できる軍事力もなかったな。大国といっても態度がデカいだけで。
 苦:内戦の初期においては、人民戦線側はバスク、カタルーニャ、バレンシア、マドリード、アンダルシアなど国土の大半を確保していました。
 微:盤石の体制だな。しかし、謎のバスク。捕鯨業が盛んなのが未だにわからん。
 苦:反乱軍はマドリードを目指しましたが、国際旅団、市民の必死の抵抗で陥落しませんでした。
 微:人民戦線側はマドリードの歓楽街で勝利を祝い、二日酔いで次の攻撃でへばりました。
 苦:なわけねえよ!! 長期化を覚悟したフランコは北部の港湾、工業地帯制圧へ狙いを替えます。
 微:映画『パンズ・ラビリンス』も舞台が北部山岳地方だったな。それで主人公のお母さんはフランコ軍の大尉と再婚する羽目になったのか。
 苦:反乱軍は北部を制圧し、1937年春にはバスク地方が孤立し、ビルバオなど主要都市が陥落します。4月26日にはゲルニカが、ドイツから送り込まれたコンドル軍団による空襲を受けました。
 微:空爆ですべてが歪んでいたので、ピカソが珍しく写実的に描いたのに歪んでいる・・・。
 苦:あれは確立された画風! 1938年にはアンダルシア地方の大部分がフランコ側に占領され、人民戦線政府側の勢力はカタルーニャとマドリードで南北に分断されました。
 微:なのに孤立したカタルーニャで反スターリン派とコミンテルン派の間で分裂してたんだろ。
 苦:もう人民戦線側の期待は、大戦が勃発してファシズム対反ファシズムの構図が確立し、国際的支援を取り付けることでしたが、ミュンヘン会談でこの期待も挫かれました。
 微:ミュンヘンで乾杯している間に、人民戦線が完敗。ウマイねえ、我ながら。
 苦:聞かなかったことにします。1938年7月、人民戦線側は南北分断状態を打開しようと、カタルーニャ側の総力を結集し、エプロ川で攻勢に出ます。ですが、戦線は膠着しました。
 微:前半の激しいプレッシングで体力を使い切り、後半は足が止まったそうです。
 苦:サッカーじゃねえよ!! 人民戦線側はずるずると後退し、フランコ側の約2倍の死者を出し、カタルーニャの人民戦線陣営は消耗し尽くしていました。
 微:サッカーでブラジルと戦った日本代表が前半で足をつらせるようなもんだな。
 苦:フランコは30万の軍勢でカタルーニャを攻撃、1939年1月末にバルセロナを陥落させました。
 微:この頃、カタルーニャ出身のサマランチ会長も「も~、タマランチ」と叫んでいましたから。
 苦:スポーツ新聞のエロ記事じゃねえよ! 2月末には英仏がフランコ政権を承認し、アサーニャは辞任を表明しました。
 微:イギリスはともかく、フランスは裏切りだな。19世紀はあれだけ軍隊派遣したのに。
 苦:フランコは3月に内戦の最終的勝利を目指してマドリードに進撃を開始します。
 微:まず、牛の大群を放ったそうです。
 苦:牛追い祭りから離れろ!! 人民戦線側は徹底抗戦のスペイン共産党と、戦意を喪失したアナーキストとの内紛で瓦解し、4月1日にフランコは勝利宣言を出しました。
 微:でもエイプリル・フールなので、誰も信じなかったそうです。
 苦:嘘しか言わないお前が言うな!! 勝利したフランコ側は激しい弾圧を加えます。フランコの軍事法廷は人民戦線派の約5万人に死刑判決を出し、その半数を処刑しました。
 微:半分は生かしたということは、慈悲深いんだろうか?
 苦:容赦ないよ!! 自治権を求めて人民戦線側に就いたバスクとカタルーニャに対しては、バスク語、カタルーニャ語の公的な場での使用を禁じるなど、その自治要求も独自文化も圧殺しました。
 微:それでフランコの息のかかったレアル・マドリーとの試合にバルサのソシオは燃えるんだな。
 苦:カンプ・ノウ球場の「カタルーニャはスペインではない」横断幕ですね。人民戦線側の残党から多くの国外亡命者が出た他、ETAなど反政府テロ組織の結成を招きました。
 微:日韓関係と同じく、近くにいる微妙に違う民族との争いは血みどろ化するよな。
 苦:ちなみに同じくレアル・マドリーとの試合に命を賭けるアトレティコ・ビルバオは選手全員がバスク人で固められていますす。
 微:ちなみに「打倒巨人!」を掲げる阪神の選手のほとんどは大阪・兵庫の出身ではありません。
 苦:みんな知ってるよ!! スペインの混乱は一応は終息します。国土の荒廃も激しかったですが、フランコが生んだスペイン国民の心の荒廃はもっと凄まじいものだったのです。
 微:そうです。ヤケクソで人混みに牛を突進させて、それを見て笑う連中がたくさん出てきました。
 苦:牛祭りからはなれろよ、いいかげん!
 微:その次には、食べ物を粗末にし、トマトを相手かまわず投げつけるバカも大量に現れました。
 苦:それも恒例のトマト祭りだよ! 1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、フランコは「中立」を宣言しました。
 微:なんちゃって中立だな。
 苦:緒戦でのドイツ・イタリアの優勢を見て枢軸国側に近づきます。1940年10月にはヒトラーと会談し、その蜜月関係を世界中に対し誇示しました。
 微:その時の無修正写真がネットに流れて、えらいことになったんです。
 苦:その頃、ネットはおろか、パソコンもねえよ! フランコ政権は、彼が内戦中に組織したファランヘ党の一党独裁政権であり、軍隊とグアルディア・シビルによる厳しい支配を行いました。
 微:「ファランジュ」のスペイン語発音ね。確かに束の力。
 苦:国際連合は、1946年12月の総会で、スペインを排除する決議を採択しているほどです。
 微:その「ファランヘ」も創設者が殺されて微妙に政策は変化しつづけたんだよな。
 苦:しかし、東西冷戦の激化により、アメリカはスペインとの関係の修復を模索し始め、1953年に米西防衛協定を締結しました。ファシズム独裁がアメリカ公認の開発独裁に変わった瞬間でした。
 微:アメリカは、自分の正義は疑わないし、相手国の指導者が犯罪者なのに疑わない。
 苦:80歳を越えてフランコの健康状態が悪化し、後継者問題が表面化しました。フランコは前国王アルフォンソ13世の孫フアン・カルロスを1969年に後継に指名し、1975年に83歳で没しました。
 微:イベリア半島の春だな、1974年と75年は。
 苦:1975年にブルボン朝が復活し、国王フアン・カルロス1世は政治の民主化を推し進め、1977年には総選挙を実施し、1978年に議会が新憲法を承認、「スペインの奇跡」と呼ばれました。
 微:1981年の軍事クーデタでも、国王は直ちに全軍の指揮官に応じるなと呼びかけて失敗させてたな。ここにスペイン人のフランコ時代への拒否感がよく表れているな。
 苦:何が怖いってプーチンはウクライナとの戦争を「内戦」にしたいと思っている可能性です。
 微:ウクライナ併合か。それよりも北朝鮮を併合してくれた方が世界が喜ぶと思うが。
 苦:韓国が「どうぞどうぞ」と言いそうで怖いよ!!(ペシッ!)

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