帰省が苦しい理由は。


 5/1まで仕事をして、5/2から帰省をして帰宅はわたしが5/7に予定を入れていると言ったら5/6までになったから(そうじゃなかったら5/7まで関西にいる予定だったらしい)多分帰ってくるのは5/7の日付超えたあたりじゃないかなと思っている。


 5/7は予定があってお出かけ、5/8〜また仕事(とは言えわたしは週3、一日3時間勤務の短時間しか働いていないけれど、それは結局それ以上なかなかもたないからこのままなわけで)。


 別に祖父母のことが嫌いとかじゃないけど、50〜60代で、自分の親(または義親)の元に帰る両親と、祖父母の元へ帰ることになる私たち子どもにとっては帰省は全然違う。毎年帰っているんだけど、大学4年のあの就活が忙しかった時もGW、夏休み、年末年始と3回、それぞれだいたい5泊くらい帰っていて、就活があった時も、院生のあのめちゃくちゃ忙しかった二年間も、修論提出間際の年末年始も、帰って結局何もできなかった。そう、別に、帰省すること自体がダメなわけじゃないけれど、往復に車で7時間くらいかけている間何もできない、祖父母の家にいる間何もできない、(で修論の時は、それでもやらないと間に合わないから、論文を書く時間もレポートを書く時間もないけど何か調べたり、論文に書くことをメモしておくことくらいしかできないけどそれをやるために)祖母が寝るまで祖母と話して(祖母は帰ってくるとたくさん話すからいつもは21時とかに寝るけど0時とか1時くらいまで話してたりする)、それから寝る準備をして2階に上がってそこから始めることになる。

 散々高校生の相談に乗って寝る時間を削りまくって過労で2回も倒れて薬飲んで、次に倒れたらもう死ぬかもしれないからねと医師に言われてとにかく寝なさい、絶対寝る時間を削るなと言われている中で、帰省中休むことなく起きたら母と炊事、買い物、もしくはランチなどでお出かけ、帰ってきてから夜ご飯を準備したりして夜中まで祖父母と話して、1時過ぎとか2時とかに祖母が寝てからやっと二階に上がってレポートと修論に手をつける。で、寝るのがもう眠すぎて寝る4時とか。朝は祖父母は5時6時かは起きてるけど流石に睡眠時間足りなさすぎるから7時過ぎまで寝させてもらっていたけれど結局帰省中、睡眠時間3時間くらいだった。


 疲れ果てて過労に2回もなって倒れて、脳みそが出てくる?ってなるくらい吐いて、気持ち悪くて、そういう過労を過ごしてそれでも退院した次の日から大学に行くくらい休みがなくて、結局大学院を修了するまで休めなくて、だから教員になったけど、本当に倒れそうで休みたくてでも休めないから休みたくて仕事を速攻辞めてしまって。


 私は20代は、本当に辛かった。

 もちろん祖父母に会える時間は限られてるのはわかるし、いつでも会えるわけじゃないこともいつかは会えなくなることもわかる。でも、

 80代だったの祖父母の一日、一週間と
 50代だった両親にとっての一日、一週間と
 20代だったわたしの一日、一週間は、

全然、違う。

 わたしが嫌だったのは、それを両親がわかっていないことだったんだとおもう。


 「いつまでもおじいちゃんたちいるわけじゃないのよ、言っちゃあれだけどいつ会えなくなるかわからないのよ」とあの頃も両親に言われて有無を言わさずわたしも帰省させられたけれど、

 もちろんそうかもしれないけど

「二年で修了しろと言われているわたしにとっても今しか院生としてやる時間はないんだよ」「わたしにとっても20代は今しかないんだよ」と思っていた。


 で、これは結果論だけど、あの魔の帰省から6、7年経った今も、結局祖父母は、ピンピンに生きていてむしろ過労以降のわたしとは比較できないくらい元気なのである、正直わたしの方がいつ死んでもおかしくない健康状態に近い。


 すぎた過去のことをうだうだいうのはよくないのだけれど、

 でも、わたしはやっぱりあの時、、無理やり帰省させられたことを今でも覚えている。


 こういう恨みは一生だからね、おまけにわたしは、この帰省が原因とは言わないけれどでも要因のいったんはになってて、院卒後の進路を変えることになったし(つまり人生が変わったし)、修論の出来もあの帰省の一週間がなければ、もう少しはマシに提出できていたと思う。

 もちろん1番は、過労になった要因のことだから帰省だけが要因じゃないんだけど。

 まあそれもこれも含めてわたし自身の原因で、わたしがいけないんだけれど、わかっているけれど、帰省は、嫌だと無理だと言っても、強制送還みたいなもんだったからね。


 過労で倒れてからもう7年経つけれど、今も薬を毎日飲んで、起き上がれず、身体はキツく、少しの疲れで、身体は震える。


 20代の時、いいじゃん若くて、なんでもできてと言われるのが本当に嫌だった。わたしにとって20代は本当に苦しい十年間だったから。

若い20代の時代を、自分のためにほとんど生きられなかった。30歳に近づいた27、28くらいになってやっと少しずつ自分のために生きられるようになって30歳を挟んで昨年頃からやっと本当に自分の好きなように生きられるようになってきたところなの。


 身体をこわしたら、全てが終わるんだなと知った。働けない、だから自立もできない、起き上がれない、から家のこともやらなきゃと思うけどそもそも起き上がって仕事に行けるだけの体力や力がないわたしが家事を担おうはなかなか無理。わたしはこうやっていつまでも実家にいて、結局何もできないままの人間なのかもしれない。

 家にいるとうまく生きられない、親とも距離が取れない、だからとにかく家を出るしかない、でも家を出るためには、働かなければならない、でも、働ける場所が、雇っていただける場所がない。ずっと負のが悪循環。


 抜け出さなきゃと思うけど、過労以降ちょっと「頑張る」ことが何もできなくなった。躁鬱になった2020年頭以降、「頑張る」という言葉すら出てこなくなった。そして結局病院に通えないから自分で躁鬱を抱えながら、、無理しすぎない程度にそれでもなんとか、働かなくなったら終わり、働かなくなったら終わりと思って働いてきて、

 働いてるけど自立できるほど働けない、だから実家にいてでも実家にいると生活保護を受けられない。

 幸か不幸か、実家が東京なので、東京というか、関東近辺を出ないといけない状況を作らないと、結局生活保護から受けさせてもらえないことが区役所に行ってわかった。(「親御さん元気なんだからあなたは受けられない」という感じのことを言われた。「あなたが頑張ればいい」みたいなことも)

 働きたくないって生活保護を受けている人がどのくらいいるか知らないけど、実際、ただ働きたくない、から生活保護で十何万とかもらってる人がいるのは(働けなくてもらってるのはいいんだけど)、働けなくてそれでも必死に無理ない程度にはそれでも働いて、でもそれだと家も出られなくて、家を出てないから余計に生活保護を受けられなくて、あなたが頑張ればいい親を頼ればいいと言われながら、家を出るために、働けないなりに働いて、躁鬱を繰り返して適応障害にもなりながら、体力も体調も万全になる日がない中で必死に生きてるのが虚しくなってくる。


 身体を壊したら、心を壊したら、この世界は、終わりなんだよ。


 私はそのどちらも壊した。

 あの時わたしは死んだんだ。

 なのに、履歴書にも他人にも、
あの時のわたしの結果を過去の結果を、全て背負わないといけない。


 で、苦しい。

 祖父母には過労で倒れたこと、てんかんがあることは言うなと母に言われていて、倒れてから7年経った今も、過労で倒れたことは一度も言ってていない。

 病気もなく、ホテルのランチとアフタヌーンティーを週に数回とか行けるくらい元気な祖父母に、

 「ゆかまるちゃんは若くてええなあ、おばあちゃんはもう90やから」とか言われると、本当に苦しい、その苦しさを、親はわからない。

 でも、それもこれも全て、わたしが背負わなければならないから。


 30を超えて少しずつ少しずつだけれど、肩の力を抜くようになって、少しずつ明るく生きられるようになってきた。それでも、苦しいことはすごく苦しくて、一度躁鬱になってからずっとわたしの心に、黒い魔物が棲みついている。


 健康で体力有り余ってる両親も元気な祖父母も、私よりずっと体力があって健康で、元気なんだよ。

 帰省した時
祖父母と両親と私だったとしたら1番若いのはわたしだけれど、1番健康じゃなくて1番体力がないのは、わたしなんだよ。

 その中で、「ゆかまるちゃんは、若くてええなあ」って倒れたことも知らない祖母に悪気なく言われるたびに、苦しくなる。

 もう、院生生活も、苦しく寝込んで過ごしてきた20代後半も、もう帰ってこない若い時間だったのだと、今思う。


#帰省

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