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Coccoの「Raining」を掘ってみる

Coccoというミュージシャンの「Raining」という曲がある。

https://www.youtube.com/watch?v=jvpYlSOAo9A

非常にいい曲で、聴くたびに心の何かをえぐられるような感じがする。

この曲についてはいろんな人がいろんな解釈をしているが、そういった解釈や本人の意図とは別に、表現という視点から掘り下げてみる。

まずは「Raining」の歌詞から


ママ譲りの赤毛を
2つに束ねて
みつあみ 揺れてた
なぜだったのだろうと
今も想うけれど
まだわからないよ

静かに席を立って
ハサミを握りしめて
おさげを切り落とした

それは とても晴れた日で
未来なんていらないと想ってた
私は無力で
言葉を選べずに
帰り道のにおいだけ
優しかった
生きてゆける
そんな気がしていた

教室で誰かが笑ってた

それは とても晴れた日で

髪がなくて今度は
腕を切ってみた
切れるだけ切った
温かさを感じた
血にまみれた腕で
踊っていたんだ

あなたが もういなくて
そこには何もなくて
太陽 眩しかった

それは とても晴れた日で
泣くことさえ できなくて、あまりにも
大地は果てしなく
全ては美しく
白い服で遠くから
行列に並べずに少し歌ってた

今日みたく雨なら きっと泣けてた

それは とても晴れた日で
未来なんていらないと想ってた
私は無力で
言葉を選べずに
帰り道のにおいだけ
優しかった
生きてゆける
そんな気がしていた

教室で誰かが笑ってた

それは とても晴れた日で


ここまでが「Raining」の歌詞となる。


ママ譲りの赤毛を
2つに束ねて
みつあみ 揺れてた


まずはこの部分は、現状の説明。
その次にこの歌詞がくる。

なぜだったのだろうと
今も想うけれど
まだわからないよ


「今も想う」という言葉がくるので、先ほど現状と説明した時間軸よりも後、つまり、回想をしているという設定になっている。

静かに席を立って
ハサミを握りしめて
おさげを切り落とした

こういう出来事があった日を回想していることになる。そして、なぜ、おさげを切り落としたのか?理由はわからないが、その時置かれていた状況の何かを変えよう、何かに区切りをつけようとしていたのかもしれない。それとも何かへの抗議?
何かはわからないが、明らかに言えるのは、自分なりの決意表明、決別宣言であり、強い意志を持っておさげを切り落としているということ。

それは とても晴れた日で
未来なんていらないと想ってた

そのおさげを切り落とした日はとても晴れていた。
通常は、晴れている日というのは、ポジティブな感情を抱きがちだが、そういう日に、

未来なんていらない
と想ってた

と、ネガティブな感情になっている。つまり、外部環境が晴れている=ポジティブであることにより、自分が抱えているネガティブな感情が、より際立っているのかもしれない。いわゆる、「光が強いと、影が濃くなる」ということ。自分の心身のコンディションと、周りの環境との大きなギャップによる戸惑い、不安、孤独感が描かれている。

私は無力で
言葉を選べずに

そんな自分の気持ちを言語化できない。できないがゆえ、おさげを切り落とすという行為によって、何かを伝えよう、自分の感情を表現しようとしていたのかもしれない。ただただ無力感に苛まれたのかもしれない。

帰り道のにおいだけ
優しかった

「帰り道」という表現は、おさげを切り落とすという非日常の出来事を起こした自分の境遇から一度離れて、自分が安心できる日常の場所、自分を受け止めてくれる日常の場所へ戻って行こうとする道程なのかもしれない。その道の先にだけ、自分の存在を認められる場所があると信じ、その道中で安心感に包まれた感情を「帰り道のにおい」と表現したのだろうか。その時に、自分の存在意義を少しでも感じられて、

生きてゆける
そんな気がしていた

自分を肯定できる、自分を認められる、自分を受け入れることができる、という気がした。

教室で誰かが笑ってた

これは何に対して笑っていたのだろうか?そして、これもおさげを切り落とした時のことを回想している表現になっている。何に対して笑っていたのかはわからないが、少なくともその笑いに関しては、ポジティブなものとしては捉えていない。おさげを切り落としたことを笑った、もしくは笑っていた本人の意図とは別に、そういうふうに解釈した可能性もある。

それは とても晴れた日で

そして1番の歌詞の最後を、この言葉で締めくくっている。ということは、その晴れていたという外部環境が、自分の感情とあまりにもギャップがあって、それが余計に自分のネガティブな感情を浮き彫りにし、印象的だったのかもしれない。というか、そのコントラストの大きさを強調する表現として再度「晴れた日」という表現を繰り返している。


学校の教室でいきなり席を立って、自分のおさげを切り落とすという行動を取らざるを得ないほどの不安か何かの強い感情、強い衝動を抱えていて、それを言葉ではうまく説明できないから、解消するためにおさげを切り落とすという行動をとった。ただ、その行動はもちろん周りに理解されるようなものではなく、ひょっとしたら嘲笑の対象になったのかもしれない。もしくは、周りの反応がそのように感じられた。そんな理解されない自分の感情とは関係なく、外はとても晴れていて、それが自分の感情とあまりにもアンバランスだった。今の苦しさに区切りをつける、今の苦しさを回避する、もしくは今の苦しさに折り合いをつけることしか考えられず、未来のことなんてどうでもよかった。
ママ譲りのと言っているおさげを切り落とすほどの強い感情、抱えていた苦しさが何かはわからないが、強烈な過去との決別、または今区切りをつけなければ自分が自分でなくなるような焦りや恐怖があったのかもしれない。ただそれが死に向かわなかったのは、かろうじて、自分を優しく包んでくれる、自分の存在を少しでも受け止めてくれる帰り道の先の環境、自分にとっての日常を受け入れてくれる環境があったから。だからこうして当時のことを回想できている。

おさげを切り落とす理由は、本人にも明確にはわかっていないのかもしれない。その理由よりも、抱えている苦しさを、他者や社会、周囲の環境と共有できない、理解してもらえない、伝えられない、歯車が合わないもどかしさ。そういった置き所のない不安やギャップに常に感情が揺れている自分を表現したかったのかもしれない。いや、それしか表現できなかったのかもれない。

かつれ、橋本治という作家の「桃尻娘」という本があった。
この本は、思春期の心が不安定な女子学生の気持ちを「桃尻」という表現で表した。
Coccoの「Raining」は、テーマとしては、同じものを違った角度から違う表現で描いているものであろう。
おさげを切り落とした原因が主題ではなく、そこに至る女子学生の不安定な気持ち、社会や外部環境からの隔絶感や孤立感、それに対する言語化できない苛立ち、無力感などをうまく表現した曲になっている。

というのが私の「Raining」という歌の1番を掘り下げた解釈。

正解かどうかではなく、どうしてこのような言葉の選び方や構成にしたのか、を自分なりに解釈してみた。

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