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「起立性調節障害」に負けないために③ 大学受験編

こんにちは。隣の芝生です。前回記事では、主に高校受験で迎えた難局などのお話についてさせて頂きました。第1回からのシリーズ物ですので、過去回をまだお読みでない方は、ぜひリンクからお読みください。

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第6章 四度目の入学式

普通の高校生であれば、小・中・高の3回だけ入学式を経験しているはずですが、私は"普通ではない"ので、この段階で4回目の入学式を経験しました。

 去年と同じように校庭には桜が咲き、去年と同じように校長がお話をなさって、去年と同じように式は流れていきます。変わったのは周りにいる生徒が見知らぬ顔ということだけ。

 式が終わると教科書を取りに行きます。先生から「クラス全員並んで~」との指示が入り、私も皆と同じように並びますが、教科書は取るフリだけ。何とも間が抜けたスタートではありましたが、ここは気付かれないように。きちんと再起しなければ、未来は無いですからね。

 もちろん、この段階では随分体調が回復したとは言えども、まだまだ本調子とは程遠いものでした。そのため、単位に関係の無いホームルームは、調子が優れなければ無理に参加することはしませんでした。「HRには間に合わなくとも、授業に間に合うようには到着しよう」くらいの、良い意味で適当な目標を立てて、無理のない復帰を目指しました。

 部活にも入ろうかなと思いましたが、居住地域よりも交通が不便な地域への越(都・府・県)通学で、体育会系の朝練にきちんと参加できる見込みが低く、大会に参加する場合でも当該エリアのバス移動が原則になるので、乗り物酔いや吐き気が完全に治ってない私には厳しかったように思えます。

 そもそもの学校全体の部活加入率が低く、文化系も特に興味の湧く物がなかったので、無理に入部することはしませんでした。自分を追い込みすぎると余計に調子が悪くなるのは、中学生の時に学んだんだ。

 何日か過ごしていると、"一つ上の情報通の先輩"からのタレコミを掴んだクラスメイトが、「何人か"勉強ができなくて留年してる"らしいぞ」という噂をしており、その話題を何度か耳にすることもありました。

 ある意味、これは過年度生が耐えなければならない最初の試練かも知れませんが、当然、そんな話題が出ても私は知らぬ顔。それが誰だかを知ったところで君たちと"同学年"なのは変わらないからね。性格の良くない人間が、一定数"同い年の上級生"に混じっていたこともわかりました。すぐに噂の発信源の割り出しにそう時間は掛かりませんでした。

 こんな過年度生の話題がクラスを賑わすなかで、私はなるべくフランクなお付き合いがしたいと思い、わからないところがあれば素直に同級生に聞いたり(私の方が在籍期間長いんじゃないのか?)、運動音痴なりに体育で協調の姿勢を取ったりと、素直なお付き合いにこれまで以上に努めました。


6-2 なんか独り言を言っている子が隣に…

そんな"新1年生"としての生活が数週間が経った頃の体育の時間、私の隣でぶつぶつと独り言を続けている子がいました。なんだかよく聞き取れないけど呟いている。次の体育の時間で顔を合わせてもなんか言っている。一体何者なのか。この人もXくん(第1回参照)と同じように何か問題があるのか…?

 ん、よくよく耳を傾けてみると、私に話しかけているではないか。気付かなくてごめんよ。おまけに結構いい人そう。え、毎回この授業の時に話しかけてたが、無視されていた…? それはそれは申し訳ない…。

 頭が回らず気も利かない私に根気強く話しかけてくれた彼と、その場で意気投合。彼の周りにいた子たちも仲間に入り、どうにか早々に友達を作ることに成功しました。おまけに彼らも予備校などにはあまり頼らず、自学自習でコツコツ努力するタイプとのことで、これはお互いに良い方向に行きそうです。

 中学の頃は、我慢を伴う度を超えた対人ストレスと、受験に向けたキャパオーバーな努力で体調を崩しましたが、今度は対照的に、何も考えずに楽しく付き合えて、程良く一緒に頑張れる友人を見つけることができました。ここから、状況は大きく好転していきます。


第7章 高校を無事に卒業

起立性調節障害の症状自体は、高校時代の最後の方まで残り続けました。しかし、復帰絶望だと思われていた人間が、ある程度普通に登校できるほどには回復したことで、より周囲の方から支援して頂けるようになったと感じました。

 私の出身校では、夜の21時頃まで学校が開放され、志願すれば既定の時間まで自主的に勉強できるというシステムがございました。ただ、この制度は従来は途中帰宅不可となっており、中学生の時に毎晩コーヒー漬けで勉強し続けた挙げ句潰れた私には不向きな物でした。

 ちょうどこの頃、世間では「働き方改革」のムーブメントが起こりつつあり、先生方が大勢の生徒を放課後に確認して回るのもまた、業務量の増大に直結しているとの判断があったことや、こんな貧弱な過年度生も出したことも手伝ってなのか、再スタート年から途中帰宅自由に要件が緩和されました。


 この制度を使って、1年生のうちから毎日19時まで友達と学校に残って、計画的に勉強を進めたり、選べる大学こそ減りますが、戦略的にウェイトの重い科目を受験教科から外すなどの工夫を行って、無理のない受験勉強を心がけました。

 また、3年生の末に一部教科の出席単位数が少しだけ足りなかったのですが、受験終了後にコマ数不足の人にだけきちんとした補講授業が開講され、無事に単位を規定数取りきりました。これは特に病気では無い子も合同で開催されましたが、学校側からの手厚い配慮だったのは言うまでもないですね。


 結局のところ、周囲からの理解を得るためには、努力できる時に努力する姿勢と、説得力を持たせるための実績が必要なのかも知れません。これで私の高校から、「似たような病気をした人間の復帰例がない」という前例がなくなり、受け入れない理由が一つ減ったのです。いま起立性調節障害で困っている方も、元気になった時には次の代が苦労しないように、できる限りの努力ができるといいですね。

 大学受験については、国立1校と私立を5校程度を受験しました。国立に関してはセンター試験開始の2日前にインフルエンザに罹るという、相変わらずの波乱展開のおまけ付き。当日は本調子ではなかったのでもう休もうかと思ったのですが、即効性のある良い薬があり、僅か1日で完全な解熱に成功。なんとかギリギリ出席停止解除条件に持ち込めたので強行しました。

 試験終了後に自己採点合否判定システムに掛けた時は、判定欄にある学生のイラストがめっちゃニコニコしてたので安心したのですが、蓋を開けてみれば1%強差で不合格でした。なにわろてんねん。とんだヌカ喜びだわ。


そのまま私大に行くことに…。



7-2 華の大学生活に…?

 大学では昔から関心があった経済・経営・社会学系を選択し、ガクチカ対策として教育業のアルバイトも始めました。未来ある小・中・高校生に、私のようにはなるなと願いを込めて指導をするのは、なかなかやりがいのあるものです。

 教育学部への入学も検討したのですが、第1回記事で登場した教育学部卒の中学の担任が、(私には我慢を強いりましたが)あまりに生徒思いで、本当に天職として仕事なさってるような方だったので、さすがにあの域に自分は到達できないなと思い、結局受験しませんでした。大学入学時点で教員になる覚悟ができていなかった。その年は私大厳格化の影響で、そこが合格者数を半減させるみたいな話も告知もありましたからね。結局例年通り取ったみたいだったので受けときゃ良かったかな。後悔先に立たず。

 サークルについては、お話するのも好きで、声も人より通ると自負してるので、本当は発声方法や滑舌を本格的に練習できるアナウンス研究会に入りたかったのは正直あります。ただ、最初に払う会費がフタ桁万円で、活動時間が昼休みだったため、諦めざるを得ませんでした。


 というのも、1年生の頃は週4で1限に必修、週3で昼休みを挟んで授業が入っているという文系にしては強烈なクラスだったので、起立性調節障害経験者×アナ研志望の人泣かせでしたね。理系の方には、その程度で…と笑われるだろうな。


 自動的に振り分けられた週4日の1限は気力で解決しました。逆に言えば気力で解決できるくらいには、病気が寛解したと言えるでしょうか。ある程度、授業の感触や課題の量が掴めたところで、別の文化系サークルに入っています。


あとがき

最後までお読み頂きましてありがとうございました。今回は刻みの関係で、3500字程度と比較的ライトな分量に収まりました。サムネイルの写真は、いつかの池袋駅前のイルミネーションです。本当はツリー型なの。

次回以降は、いよいよ就活編です。この病気を患っていない方にも、ある程度お役に立てる内容になるかなと思います。よろしくお願いいたします。


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