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「起立性調節障害」に負けないために②高校受験・生活編

本記事は第1回目の続きとなります。まだお読みで無い方はこちらからどうぞ。

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ごあいさつ

こんにちは。隣の芝生です。前回記事では、私が経験した起立性調節障害の症状とその原因についてお話して参りました。引き続きお付き合いください。詳しく読みたい方は、上記リンクの初回からお進みください。


第4章 志望校ってなんだっけ…

起立性調節障害にいざなってしまったら、周囲の方々のサポートが非常に重要になってきます。私の場合は、塾の成績が絶好調だった中学2年の末あたりに違和感を感じ始め、中学3年になって程なくして学校に通えなくなりました。

 ここで問題になってくるのは内申書や併願作戦です。読者の方の居住地や、志願する学校によって内申書の扱いは異なるでしょうけども、今回の文章では内申が纏められないことは死活問題だと思ってください。

 先述(第1回目参照)のXくんの件で相談を持ちかけた担任の先生は、私に我慢を強いてきたこと以外は非常に親身になってくださる先生でした。私が出席できていない間も「君はいつも勉強を頑張ってたから、出席不足で5はさすがにあげられないけど、多分このくらいは家で勉強してるだろうという見込みで4はあげるね」と、最後の学期まで進路選択で不利が出ないよう4を下さりました。

 これに目くじらを立てるのか、血の通った良心的な先生と取るかは皆様にお任せ致します。しかし、2年生の間に私が先取り学習を済ませていたのは一応事実ですので、実際に通ってたとしても4は貰えても、そこまで度が過ぎた贔屓ではないとは思いたいです。

 しかし、他の先生方はもっと評価に対してシビア…と言えば良いのか、規則通りきちんとお仕事をされています。私の内申書は当然のことながら、評価不能項目が増え、評定も下がっていきました


4-2 出願の壁

これによって問題になってくるのが出願です。中学校は、高校に対しての内申書・生徒の所見の送付権限を握っています。実際に全てを掌握しているのかはわかりませんが、当時は権限を握っていると中学側から伝えられたので、この表現を使わせて頂きます。

 中学としては高校浪人を出せないので、確実に受かるところを勧めるのが基本的なスタンスとなってきます。その上で指標となるのは学校の内申であり、市立中学生向けの一般模試です。何が起こるか、もう皆さん予想ができたでしょう。

 私の場合は、最後の1年間は社会に4が付いているだけで、他の教科は全部計測不能か低評価です。おまけに、これは確実に自分が悪いのですが、私は塾の全国模試の成績は絶好調だったものの、市立中の生徒向けの一般模試は全くと言っていいほどそもそも精彩に欠いていたのです。人から教わったことの理解度が一律に7割程度なのかわかりませんが、記述中心の難関私立の問題を解かせても、教科書準拠の選択問題で高得点を狙いに行く県立高校の過去問を解かせてもあまり変わらない正答率だったんですよね。

 故に、中学からの認識は、「登校してた時期は高く見積もっても中の上程度だから、不登校になっていればもっと下がっているだろう」という程度の物でした。そこから「"確実に受かる学校"を提案しなければいけない」という流れになるのは至って自然なことだったのです。

 そこで提案されたのは、社会から距離を置かれている方が通われるタイプの通信制・定時制の学校や、試験ではなく面接重視の学校でした。これらの学校のどこがどうとか、偏差値至上主義的な考えを申し上げたい訳ではございません。後の章でこれらを選択肢に入れるべきというお話をします。生徒をきちんと守れる学校に貴賤はありませんからね。

 ただ、自分がいままで突破できるかわからない高い目標を掲げ、そこに合格できるかという水準まで頑張ってきた過程が、病気によって全く評価されないという点だけに不満があったのです。これは、同じ病気の子を指導される先生方がいらっしゃりましたら、私から強く申し上げたいことです。

 もちろん、これには塾の成績表を見せる(最盛期よりは下がってはいましたが…)なり、放課後に登校できる時は自主的に課題を持ってきて提出するなどの対策は打ちました。しかし、塾の成績はあくまで塾の成績であり、中学としては学校の内申と、居住地域で有名な県立模試だけを指標とするということで、これは受け入れて頂けませんでした。中には、塾の模試基準でどう考えても学力に余裕のある私立についても、「そんなの参考にならないから辞めておきな」と仰る中学の先生もいらっしゃりました。

 それに加えて、一番辛かったことは、中学側から「1月xx日・xx日、2月のxx日・xx日は、こちらで指定した学校以外を受ける場合は、内申書や生徒の所見を高校側に出さないよ」とも言われたことです。その中には第一志望校の受験日も含まれていました。このような事態が、心身に余計なストレスを掛けるのは言うまでも無いでしょう。しかし、ただでは引き下がらないのが私であり、両親もそれに協力してくれました。


4-3.反転攻勢

 学校側から指定された高校の受験日に被らず、目標である大学進学(元々経済や企業動態が好きでした)に生徒全員の意識が向いている高校に行きたかったので、片っ端から電話を行い、病状を伝え、受験に受かった場合の受け入れ可否について尋ねました。

 …あたかも自分がメチャメチャ能動的に動いたかのように書いてますが、実際は両親が中心です。この頃の私はほぼ完全に潰れていました。最終的に20校くらいにお話を伺い、その中で喜んで受け入れてくださる高校は、せいぜい3校。おまけに私の当初の志望校は軒並み受け入れ不可。現実は厳しいものでした。

 しかし、幸運なことに、いずれの受け入れ可能校も割と自宅から通いやすい位置にあり、問題も記述が中心で重箱の隅をつつくような物もある典型的な私立型だったので、私にとっては追い風でした。この結果を受けて、中学と粘り強く交渉し、何とか"受験する権利"を勝ち取りました。

 しかし、比較的良心的な担任以外の先生方の反応は非常に冷ややかな物でした。「こんな調子崩してて、レベルも足りない人が無駄に受けてどーすんの」みたいな感じでした。おまけに、中学が抑えとして提案した高校よりも先に、自ら提案した高校の受験があるので、一般的な方とは異なるイレギュラーな併願作戦というのも、余計に不信感を抱かれる原因になったと思います。


4-4.ここを勝って次に繋げたい

 さぁ受験本番。覚悟していたよりは症状が出ない日だったので、どうにか試験に参加することができました。散々塾の成績ばかりイキリ倒してて申し訳ないですが、この時は学力的に余力こそ残していたものの、最盛期の勢いは完全になく、数学も相変わらずからっきし理解できなかったので、英語と国語は余裕があるにせよ、3教科となれば不安の大きいところはありました。

 しかし、1教科あたりの試験時間が比較的短かったこともあり、吐き気や腹痛の心配をあまりすることなく受験できた点は良かったと思います。いざという時にお手洗いに行けない恐怖心も、精神的に余計な負担になりますからね。こういった点にも、起立性調節障害の子は気を遣わないといけません。

 結果は合格。合格発表は当日に自宅のPCで確認して、体調が比較的良く登校ができた日に中学にご報告したところ、担任の先生は既に知っておりました。わざわざ発表時間に、パソコンに張り付いて確認してくださったらしく、凄い喜んでくれたのを覚えています。この先生は教育学部の出身の方でしたが、本当に全ての担当生徒思いの先生なんだなと感動をしたのを覚えています(後にこの心境が進路選択に効いてくるので覚えておいてください)。

 一方で、他の先生の態度の変わりようがいまでも忘れられないのも事実です。個々の先生が当時どのように思っていたかを完全に知る術は無いですが、中学サイドからすれば半ば無謀にも見える受験をする前は、冷ややかな反応を示した先生が多かったのは先程述べた通りです。

 ただ、いざ夕方に登校するやいなや、副校長がわざわざ駆け寄ってきて「おめでとう!君なら受かると本当に思っていたよ」と握手を求めてきたりだとか、下手すると自主志願の高校の受験に反対の姿勢だった先生が「本当におめでとう!信じた甲斐があった!」だの思ってもいなさそうな挨拶をわざわざしてくださりました。実績一つでここまで態度が変わるなんて、大人って実に薄情で、権威やその場の空気感に流されるものだなと思ったものです。なんか捻くれちゃいそうだよね。

第5章 ご本人のために

こうして無事?に高校に入った私は、「義務教育ではないので単位を落としたら留年になる」ということを頭に入れた上で、いま一度「病気ではなく心の中の怠けが原因なんじゃないか」と疑いの目を向け、気力で登校しようと頑張ります。しかし、そう上手くは行きません。気力でどうにかならないのがこの病気の恐ろしいところです。

 まず朝。間に合う時間に目が覚めても上手く起きられない。食事を食べると吐き戻す。いざ学校に通おうと思うと、お腹の痛み(過敏性腸症候群も併発しているのでどちらが原因かは不明)や吐き気で途中下車。結局授業には間に合わずの繰り返し。腹部を圧迫されると吐くリスクが高まるので朝の満員電車にも迂闊に乗れず、何なら速達電車を使うと、任意のタイミングで途中下車すらできないので、移動に各駅停車を使うほどに。

 こんな状態でも単位を落とさないことに賭けた母親と祖母が、何度か登校に付き添ってくれましたが、それでも好転はせず。逆に付いてきて貰っても結果を出せない申し訳ない気持ちもストレスになっていたかも知れません。というかXくん事件のあたりから、世の中全体にピリピリしていたので、この頃は本当にストレス耐性ゼロだったんじゃないかと思います。

 このような状態でダラダラと月日だけが過ぎていき、ついには留年スレスレの残り授業数にまで達しました。入学早々6月に、学年主任・担任・両親・本人で四者面談が設定されました。

 当然です。私立の進学校は進学実績が全てなので、全く通えないこんな状態の生徒に用は無いのですから。何ならこの四者面談も、私が途中駅で気分が悪くなったので、先生を待たせて遅れて到着するような始末でした。面談の内容は覚悟していましたが、根拠もなく「このまま続けます」と言っても余計に説得力がない。どうしたものか。

5-2 ここで決裂したら全てが終わるんだ

 教室に着くと、担任の先生はいつもの通り冷めた目をしており、学年主任は目の奥に哀れみの感情が浮かんでいました。そんな中で、情けない息子をなんとか連れてくるだけでクタクタの両親と、頭真っ白になりながら青白い顔で到着する私。

 内容はもちろん、このまま行っても進級はできないから"本人のためを思って"転学・退学をするか、休学をして来年の再起に期待するかといったもの。これは本当に不思議なもので、本人の身体はこんなでも、意志としては続投のつもりだったので、私は何も考える余裕なんてないのに、口からは復帰の意志が勝手に出ていくもんなんですね。

 これを聞いた学年主任と担任で、反応は大きく分かれました。普段割と怖い印象で、どちらかと言うとパッションを感じる学年主任の先生からは、「ご本人の意志の尊重や、復帰の可能性に賭けてみるのも良い」といったような旨のお言葉を頂きました。

 一方で、日頃から冷淡でデータや数字に基づいて判断する担任は、「いままでにこういったご病気で、きちんと三年を修了して帰ってきた生徒さんはいないんですよ。ご無理はなさらないでください。」と静かに、諭すように両親に語っていました。後者については面と向かってそれ言うの?と後から少し思いましたが、何を重視するかの問題で、どちらも妥当な判断です。「ご本人のために」と一言で言えど、そこから導かれる結論は正反対のものなのです。学年主任の先生が援護をしてくれそうな構図ではありましたが、慎重に交渉を重ね、なんとか休学を取り付けて、ほぼ丸一年の休養に入ることになります。

 この休学期間は基本的には体調不良で寝ていましたが、お医者様のアドバイスを受け、あれだけ頑張っていた勉強は一切せず、趣味に没頭し、適度な運動をしたり、規則正しい生活を送ることで、改善に向けて努めていくことになります。

あとがき

例によって5000字クラスの長文になってしまいましたが、最後までお読み頂きありがとうございます。いいね・コメントやリンク・Twitter共有などもお待ちしております。

 2023.11末追記:なんだかこの記事が急にビュー数が定期的に伸びていて驚いています。私の預かり知らぬどこかで紹介されてるんですかね。嬉しい限りです。よろしければ①~⑧まで全編通して読んでやってください。現在読みにくいところを再編集中です。


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