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なぜ写真を撮るのか・・「ひと」を撮るむずかしさ (1)

最初のカメラは、小学校3年の時、写真クラブでした。リコーの2眼を親に買ってもらいました。近所の石神井公園に撮影に行ったり、雑誌の付録のカメラに夢中になったり。

最初の作品と言えるのは、田舎の祖父母を撮った一枚です。その後ずーっと、母にとって大事な一枚になってました。当時は、モノクロフィルムだけでした。写真屋さんで現像してもらいました。

ずっと後、教育実習で行った中学で、写真部の顧問の補助になって、ライカ型(電池なし&マニュアル)と暗室を体験しました。写真部の女子生徒を撮って、すぐに自家現像して焼き付けしました。めっちゃ楽しかったです♪

思い起こすと、わたしは、「ひと」を被写体にすることが多かったようです。

最初に本格的に写真を撮ろうと思ったのは、韓国人アーチスト「ホンジュソン」をインスタントカメラで撮ったとき。
ホンジュソンは、釜山に本拠地を構える韓国伝統芸能サムルノリのリーダーでした。
彼ら楽団のメンバーたちと一緒に数日間合宿しました。私自身も韓国小太鼓장구チャングを日本で習ってました。
ヨングァン(霊光)原発の近くの浜辺で一緒に泳ぎ、松林でランチした後、彼は突然仲間と一緒に伝統仮面劇の一場面を演じ始めました。コミカルな舞に、参加者みんな大笑いでした。涙が出るほど感動し、それでいて、こころの奥底にジーンとした何かが残る・・そんな感じの舞でした。これを見たとき、このひとを撮りたい!と無性に思いました。
その夜遅くまで、マッコリを飲みながらホンジュソンと話しました。釜山訛りの韓国語はむずかしかったですが、彼の情熱を助けに話は大筋理解しました。

サムルノリといえば、キムドクス(後に舞台を撮ることになる)が世界的に有名だけど、本来サムルノリは、農村の祭りや儀式で行う農民の舞楽である。キムドクスは、それを舞台に上げて「芸術」にしたけど、自分は農民や大衆のなかで本来の農民の舞楽をやり続けるということを熱く語りました。それは、わたしの「現場主義」と合致するものでした。
この話で、ホンジュソンを一眼レフで撮るという私の決意はいっそう強固になりました。彼にそのことを言うと快諾してくれました。


ホンジュソン

ソウルに戻って、成均館大学校内で大雨のなか、ホンジュソンを撮りましたが、残念ながらインスタントカメラでした。さすがプロ、ホンジュソンはしっかりポーズをとってくれました。
帰国してから、さっそく、知り合いの新聞社のカメラマンに相談して、NIKON F90Xをゲットしました。
ところが、その直後、釜山の路上で、泥酔したホンジュソンは自動車に轢かれて亡くなりました。
被写体を失ってしまったNIKON F90Xを持って、彼の故郷海南島に弔いに行きました。ホンジュソンは、静かな山寺に眠っていました。

ソウルに戻って、運命的出会いがありました。当時メジャーな写真家黄憲萬(ファンホンマン)と出会い、漢南(ハンナム)にあった彼のスタジオを訪れました。実は、多くのファッション雑誌を飾るファッション写真の大家でした。それと同時に、韓国伝統文化を撮り続けてました。
この時出会って、一緒に農村に撮影に行った、ファンホンマンの弟子の若者インチョルは、後に韓国写真界の第一人者になりました。この後、何度もスタジオに通い、一緒に撮影に行ったりしました。農村だけでなく、コマーシャルフォトの撮影や、美術館での撮影にも同行しました。

そんななかから、韓国伝統舞踊と韓国シャーマンの「ムーダン」の撮影へとつながっていくことになります。

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