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広い家、安い家賃、遠い職場…。

埼玉への引っ越し

「ここがいい!」「僕ココに住みたい!」
「とてもきれいな部屋ね~。見晴らしも良くて最高じゃない!」

 私の実家に帰省しているとき、たまたま見かけた「見学受付中」の看板。
不動産の内覧をしていたのです。元妻は不動産の内覧が好きで、私も興味があったので見せて頂く事はよくあったのですが、さすがに現実的に借りる予定もないのに不動産業者さんにわざわざ現地まで案内させるのは申し訳ない。
しかし、今日は最初から不動産屋さんが現地にいて
「どなたでもどうぞ」
とのぼりを立てていたものですから、堂々と内覧。
最初の言葉は部屋をみた長男と元妻が漏らした感想でした。

 当時、私たちは都内の元妻の実家と同じ建物に住んでいました。彼女の母は賃貸併用住宅を持っていた事からその入居者として住まわせて頂いていたのです。

引っ越しの必要

 今まで1DKの部屋で暮らしていた我が家。そのうち一部屋は長男の子ども部屋でした。次男には部屋が無く、リビングに布団を敷いて畳んでを毎日繰り返していたので、いずれ広い家に引っ越したいなと思っていたのは事実です。今回見学させていただいた物件は3LDK。3部屋が南側に面していて西隣には部屋がないマンションの一室、角部屋。
 でも、私にはたくさんの懸念がありました。5階建ての5階、最上階でエレベーターなしの物件。しかも角部屋。夏には南と西から容赦なく照り付ける直射日光で室内の気温はあがり、熱気が籠るので夜も暑い。逆に冬は北や西側に冷たい風が直撃し、鉄筋コンクリートの壁からは暖気が抜けるので、めっちゃ寒いはずです。結露も気になります。
 たまに来るだけならまだしも毎日5階まで階段で往復。忘れ物なんてした日には本当に大変。
 そして今まで違って職場までの通勤時間が片道2時間オーバーになること。職場の仲間には実家から通っていてそのくらいの時間の人はいても、独り立ちしたり結婚した後にそこまで遠くから通っている人はいません。
 毎日、毎日往復4時間程度が通勤時間という苦役のために使われるようになるのです。実家から職場に通っていたころの悪夢、再びという感じでした。
 それに対するメリットは少なくともこの場ではしゃいでいる元妻と長男は喜ぶであろうこと、次男も成長すれば今の家よりかは広い家の方が良いであろうこと、元妻の事をからかって長男と一緒になって悪口をいう義母と少し距離が置ける事でしょうか…。
 それとね、私は元妻が外に働きに出る事について、彼女の自由にしてあげたいという思いがあった。それが男の甲斐性ではないかと思っていました。彼女が働きに出なければ生計が成り立たないではなく、母親として子育てに専念できる時間を持たせてあげる事が母子ともに幸せなんじゃないかなって思っていたのです。もちろん働きに出たければ、子らが留守番できるよう年齢に応じた自立をさせたり、保育所に預けたりさえできればいいわけですから、協力はしても反対はしません。でも無理に働かなくてもいい、そこは彼女の自由にできればいいと思っていたのです。
 埼玉の郊外の物件なら家賃が安いですし、物価も安いので私一人の経済力、一馬力でそれが十分に叶います。しかし、それと引き換えに今度は私は家の事に携われない。これまで2人の子どもの世話をお互いが仕事しながらお互いが仕事終わりに見ていましたが、これから私は朝の6時ごろに家を出て、帰りは早くて20時、遅いともう家族が寝ているような時間になる。
 そのあたりの心配を元妻には相談しましたが、
 「私が家の事はやるから大丈夫。」
とさして真剣に考えていない様子でした。たしかに専業主婦なら任せてもいいのかも知れません。
 たくさん心配事があったけど、仕事と通勤で家にあまり居れない私より、家にいる時間が長い妻の要望を優先しました。
 しかし、この時点で元妻は、
外に働きに行くも行かないも自由な専業主婦」になったと同時に
家事・育児については自分が主担当でやる」事になり、
私も
仕事が嫌でも、職場の人間関係が苦痛でも、通勤が大変でも、家族のために決して辞める事ができない
とお互いに役割分担がはっきりした息苦しい立場になってしまったのでした。

埼玉県郊外での暮らし

 そこは私の実家の近く。いわゆるスープの冷めない距離と言う奴です。母親が他界していたため、実家に父親が1人暮らしていました。父親はこちらから招待すれば遊びに来てくれますし、
「遊びに行くね」
と言えば歓迎してくれますが、自ら関りに来ることは無かったです。このくらいの距離の置き方が僕らにとってもありがたかったです。

 元妻は当時、知らぬ土地に引っ越して来たばかりでしたが、2人の子どもたちの親を中心に上手に友達作りをしていたようです。このあたりは上手です。男はどうしても人間関係は仕事中心になってしまうところがあるし、パパ友とはお友達になれても、そもそもパパ友とは出会いが少ない。
学校のPTAとかでママ友とは出会いがありますが、さすがに適切な距離を置くべきのでなかなかお友達になれない。お友達になったとしても仲良くなりすぎるといらぬトラブルの元だしね…。
 昔、彼女は保育所でアルバイトをしていた事から保育士の資格を目指す事に。絵を描く事に苦手意識を持っていた元妻のために次男と一緒に先に下手な絵を描いて見せて、彼女に自信を持たせたりしていたっけなあ…。

 一方、私は実家から職場に通っていたころと同じように朝の5:30起き。冬だとまだ外は真っ暗。家を出るころになってようやく東の空がオレンジ色に明るくなってくる。そんな時間です。

暖房付けて、ファンヒーターを付けて、それでも寒いのでガスキッチンで沸かしてお湯を洗面所で使ったりしていました。ガスキッチン周りが少し暖かくなるのです。厳寒の日々で、

「寒いよ、眠いよ。」

これが私の冬の朝の口癖でした。
朝ごはんを作ってくれると約束していた元妻も、早起きが苦痛だったのでしょう。冬になると起きてくれなくなってきます。無理に起こすのも気の毒ですからそのうち朝ごはんは季節を問わず、職場近くの立ち食いソバや松屋の朝定食が当たり前になっていきました。ぎりぎり座れるかどうかの満員電車に飛び乗り、疲れはてる日々。
 座る事ができれば1時間程度は寝ていたり、本を読んだりできますが、座れなければ、一時間周りに潰されながら乗換駅である終点に着くのを待つのみでした。

 もうね、朝職場についた頃、みんなには
「おはようございます。」
って挨拶をしますが、私に限って言えば既に気分は
「お疲れ様でした」
なわけですよ。それくらい通勤は地獄でした。

 1日の仕事が終わって家に帰る前には必ず帰るコールならぬ帰るメール。
「何時ごろに帰るよ」
ってことと
「買い物あったら買って帰るから教えてね」
ってことを聞いていました。私が帰宅してからでも間に合う買い物ならわざわざ元妻や子どもが夜に買い物のために外出しなくてもいいようにと思っていたからです。
 週末、休みの日は本当にありがたかった。早起きしなくていいんです。家で家族と過したり、出掛けたり、遊んだり…。いろいろな事をしていました。毎年夏には泊りがけの旅行、GWにはBBQ、子らの誕生日を祝い、クリスマスには手作りのクリスマス飾りつけ、正月にも手作りの栗きんとんやら雑煮やらを作ったりしていました。

 素敵な家庭だったのではないかと思います。本当に。子ども達にとっても素敵な思い出がたくさんあるのではないでしょうか。

 職場の人間関係に苦労したり、通勤に苦労したり、過労死levelの超過勤務があったりと仕事には苦労しました。平成を正社員で過ごした人なら分かってくれると思います。みんなブラック企業で苦しい思いをしましたよね。
 でも、
自分一人が我慢をすれば家族みんなが幸せなんだ。我慢我慢
「若いうちに子どもをもうけたんだから子どもが自立するのも早い。そしたらキツイ仕事は辞めようかな」
なんて考えながら生きていました。

元妻からの(突然の)宣告

ある日、元妻から突然の通告。それは…
「別居か、離婚を考えている。」
ええ~、びっくり!!本当に驚きました。

でもね、実は突然ではなかったのかも知れません。やっぱり物事にはそれなりに予兆と理由があるのですね。
当時は全く気にしていませんでしたが、今にして思うと、実はその1年前、不思議な事が…。

 元妻がどうしても劇場で見たいと言ってきかなかった映画がありました。それまで映画はコナンやポケモンなど子どもの映画に付き合うだけでしたが、彼女がこだわった作品はこちら

-愛の流刑地-

 これのエンディングで感情移入したあまり劇場でボロボロに泣きはらした妻をみてどうしていいか分からず困った覚えがあります。

突然の別居、離婚宣告。その理由は??
当時の私の対処についても次回で書こうと思います。

これからも記事を追加していきます。感想やリクエストなどありましたらTwitterでお知らせいただけると大変励みになります。
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