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復興

「みなとみらい」に並行するようにある「桜木町」という街は、1丁目から3丁目が「中区」に属し、4丁目から7丁目が「西区」に属するという変則的な町組み。西区は中区から分区してできた区だから、恐らく分区以前が桜木町にそのまま残ってのこうなったんだと思う。分区は戦時中の空襲対策だったし。

桜木町というわりには桜並木があるわけでもなく、鉄道高架の長い壁と、雑居ビルが立ち並ぶだけの空虚な空間というのが、子どもの頃からのこの街の印象。 今は、その雑居ビルの多くが中高層のマンションになったが、それでも街頭の寂しさにかわりはない。

横浜市西区桜木町

でも、ひいばあちゃんは、この街のまったく別の姿を語っていた。大正も関東大震災直前の話しになるが、桜木町には小さいが新興の会社(つまり、今様に表現すればベンチャーな感じ?)や、三菱ドッグ(現在のみなとみらいは三菱重工のドッグだった)と取引のある会社などが、そこそこの数の新興企業が集まっていて、背広を来た若い会社員たち(当時は、会社員というだけでエリートな感じ)がたくさん働いていたと。彼らを常客にハイカラな洋食屋や喫茶店などもあって、それなりにピカピカな街だったと、ひいばあちゃんはそう語っていた。

でも、現在の桜木町には、その感じの残像が一片も残ってはいない。

ひいばあちゃんは、関東大震災で壊滅的な打撃を受け、その後は、すぐに戦争だったからと言っていたが、図書館にあたってみても、この街の往事の「にぎわい」を伝えるような記録は見当たらないのが現状。ハイカラな洋食屋や喫茶店など、夢幻の如くなり、だ。

下は2006年夏の神戸市営地下鉄西神・山手線「長田駅」から地上に出たあたりの景観。このあたりは下町情緒豊かなしもた屋が並ぶ界隈だったという。

でも、震災から10年後の2006年には、こうした空虚なビル群が立ち並ぶ、文字通り「壁」のような街並に豹変していた。あれから20年近く。この景観しか知らない子だって、もう高校生だ。

縦に長く伸びた「長家」は人と人との繫がりを分断し、それぞれの人々はそれぞれの箱の中に孤立した。空間だけじゃなく「場所性」ということにおいても(この辺りは)大きく変容した。

(そういえば「孤独死」という言葉は、この震災が産み出した言葉でもある)

震災復興とは生半なものではない。少なくとも100年を単位とするような長期戦が要求されるものだ。

神戸港は関東大震災で横浜港の機能が停止したことによって発展し、そして、その神戸港が阪神・淡路大震災で機能を停止したことで福岡港が発展した。そして、神戸港も横浜港でさえ、往時のの勢いを取り戻すことは未だにかなわずにいる。

ポルトガルは1755年のリスボン大震災によって世界の覇権を狙う位置づけを失い、今日に至っている。安政の大震災は江戸幕府の終焉を導引した。

東日本大震災被災地からの避難者の方は、2024年2月の時点で29,328人(復興庁発表)。これからも「復興」は当分続く。

「がんばろう神戸」は今も進行形、半世紀を経て、復興はまだまだ道半ばだ。能登では、まだ「復興」さえ始まっていない。

東京五輪は誰のために開催され
大阪万博は誰のために開催されるのだろう。

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