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オリジナルの「美味い」

横浜駅西口からしばらく歩くと、通称「岡野の交差点」に辿り着く。他所行きではない、普段着のにぎわい。家系の元祖と言われる吉村屋さんがあり、他の「家系」なラーメン屋さんもあり、他のチェーン店なラーメン屋さんも立て込んでいる。でも、どのお店もラーメン屋という「技能」を売っているわけではなく、どの店も、「ラーメンというビジネス」を売っているようなお店ばかりかな。

岡野の交差点あたりは、そんな感じ。

僕は、どのお店のビジネスにも乗りたくないので、さらに歩いて、カツカレーやカツ丼も美味い、ちょっとカッコイイ本格の「町中華」なお店を目指す。10人も入ればいっぱいのお店。でも、お客さんが途切れることはなく、もう少し健康だった頃は、ここで高校野球を観ながら、チャーハン+餃子をやるのが夏の贅沢だった(奥さんはタンメン)。もちろん、ハムの乗った冷やし中華もあって、そちらのこともあったし、ポリポリの麺の方の焼きそばも好きだった。

(今は奥さんも小麦アレルギー、僕も腎臓+糖尿で、今は昔の話しになってしまったけど)

ビジネスなお店はお客さんが満足しそうな物語を描いて、店舗という空間込みで、その物語を売る。それ故に、ちゃんとした「美味しい」は知らないお客さんをターゲットにしたがる。情報弱者を相手にした方が商売は楽だから。つまり、葉っぱのお金を、本当に「それは小判なんだ」と信じてくれるお客さんの方が利益率を稼げる。だってビジネスだから。

40代に入る頃には、「食べる」だけではなく、ライフスタイル全般について、ああ、これは他人が描いた物語であり、僕は、彼のビジネスのコマになっているだけだと、そういうことには気がついたんだけど、さりとて、抜け出し方がわからず、で、鬱々としていた。

何年かかけて、考え続けて、少しは自分や街場人々の暮らしぶりを俯瞰できるようになって、50歳を過ぎて進学した大学院で、その確認作業をした。

「食べる」という日常的な行為からして、僕らは大きな物語に巻き取られようとしている。学校教育からして、その準備作業でもある。そして、あの頃の若者らしく雑誌に頼って「ブランド野郎」を目指し、それを「カッコいい」と自らに刷り込んでいった。

ただ「美味しい」だけは本能に近いところにある。だから、そこから我に帰ることができたんだろうと思う。ビジネスなラーメンは、やっぱり美味くはないからね。

「システム」に「美味い」は無理だし、「美味い」を実現できる人は限られてるから「美味い」に「組織力」が効力を発揮することもない。

そんなラーメンを美味いと思えるんら、もう物語に巻き込まれているんだ。

僕は今、ライフスタイルを、街を、少しは冷静に見ることができるようになって、参考書を捨てた。失敗上等。美味しいを「ぐるなび」に教えてもらうことはないんだ。