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まち/まち暮らし

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まちが好きだなと思う。「まち」こそが居心地だ。
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東京ローカル

ときどき 現在の感心に合わせて、本棚を再整理する。 寄り道して、難波功士さんの「人はなぜ<上京>するのか」(日経プレミアシリーズ:日本経済新聞出版社/2012年)を久々に手にした。 ぱらぱらとめくりながら、そうか…そうだよな。やっぱり高校までをどこで育ったのかっていうことは、個人にとって大きいよな。育まれちゃうよな、と。 そんなことを思った。 東京で生まれて育った人と、18歳になって東京に出てきて、それで頑張ってきた人、頑張ろうとしている人… それぞれの「東京」があ

管理される「市(いち)」

都市 「都」と「市」で都市だ。 「都」は政庁。「市」は文字どおり「市(いち)」のことだ。 「市(いち)」は都市の母だ。 だから「市」だけは、原義を「新聞ダネになるような大事件」に由来し それゆえに正確には「擬似イベント」といわれる非日常なイリュージョンとは別して考えた方がいい。 「市」はまちの日常だ。 だから「四日市」「五日市」「十日市場」など、各地に「市」が地名になった場所がある。 だから、再開発地のインドアな「メッセ会場」などで行われるマルシェなどには抵抗があ

そもそも「まちづくり」は「群」でケアするものではないからな。「組織力」は「無力」ってことだろう。安定させてマニュアル化して、単純な「維持管理」で済むってことは「まちづくり」にはありえないから。「ベンチ」なら、それも可能かもしれないけれど。

役所は、短期間に人事異動が繰り返される限り「まちづくり」には無力だろうな。

神戸/ヨコハマ

今にして思えば、すでにあの頃からヨコハマは港町に乏しくて 1970年代末から80年代のはじめ 僕はしばしば「神戸」を訪れていた。 神戸には街かどの「発信源」が豊富だった。 古本屋さん、レコード(当時)ショップや雑貨屋さん…など ライブハウスや、今っぽく言えば「クラブ」。 それぞれに個性的な店主がいて、彼らに会うのがご馳走だった。 ヨコハマにも、そういう店が無くはなかったが 神戸は、見事なまでに選択肢が豊富だった。 Barや喫茶店もそうだったし、街かどの食堂や、いまでいう「ま

函館とヨコハマ

横浜市の総人口は372万人ほど(2015年)、市役所の一般会計も1兆9、156億円(令和6年度/2024年度)くらい。 対して函館市は総人口27万人弱(2015年)。市役所の一般会計は1432億円くらい(令和6年度/2024年度)。 この数字だけを見れば函館市は横浜市の10分の一以下の都市ということになる。でも、これは、あくまでも「量」的な比較であって、それ以上でも、それ以下でもない。 五島軒の創業は1879(明治12)年、つまり創業145年。その間、継ぎ足し継ぎ足し、継

システムが主役

個人店が生き残っているのは、ごく一部。全国津々浦々、どこへ行っても全国区なフランチャイズ・チェーンやコンビニばっかり。それも地方へ行けば行くほど選択肢が少なくなる感じ。三浦展さんの「ファスト風土」という警告もはるかに昔のこと。今た忘却の彼方。 今もこのファスト風土は確実に増殖していっている。 ドトールやスタバなどのカフェ、マックやモスバーガーみたいなバーガーショップ。吉野家、松屋などの牛丼チェーン。ローソンやセブンイレブンみたいなコンビニ。「ファスト風土」の主役たちは「シ

そんなに易しい状況にはない

考えてみれば当然のことなんだけど 今、元気がない、これからも、さらに元気がなくなっていきそうだという「まち」を持ち上げようとするなら、よほどアグレッシブで、創造力に富んだ人を呼べなきゃダメなんだろうなと思っている。 だから「地域おこし協力隊」といった選択肢が明確になってから、その選択肢を選ぶ(応募する)ような人で、現状の地域を持ちあげようというのは、よほどの「至難」だと思う。 できたとしても「地域」に持続的にエコーするものではないイベントや店舗の経営までで、超高齢化、若者の流

かつての喫茶店時間

再び 永井宏さんの著作「カフェ・ジェネレーションTokyo」(河出書房新社/1999年)からに引用。 線路ぎわはそんな常連客にとっては都合のいい場所で、いつも顔見知りが誰かしらいるので時間も潰せたし、みんなでああだこうだと様々な夢を語ることもできた。みんな湘南育ちだから、そのイメージや結束力は固く、湘南から何かを発信していきたいという願望がいつも気持ちの中にあった。それはたいてい海に関連していて、砂浜のゴミをみんなで拾い集めるようなイベントを開催しようとか、ドラム缶にメッセ

あの頃の自由が丘

永井宏さんの著作「カフェ・ジェネレーションTokyo」(河出書房新社/1999年)には、1970年代中頃、「ロック喫茶」といわれていたお店を中心に、永井さんの「喫茶店時間」が綴られている。学生時代から雑誌記者として就職した頃の話が中心だ。 「ロック喫茶」とはいっても、この本に登場するのは「デス・メタル」な感じの店ではない、もっとやわらかい「ウエストコースト・ロック」や、人によっては「フォークソング」にカウントしそうな「シンガー&ソングライター」の楽曲が流れる、つまり「陽の光

サイトシーイングな観光客のためのイベントや事業を重ねても、旅人にとって居心地の良い場所をメイキングしていくことはできない。むしろ逆だったりする。

facilitation

ファシリテーション(facilitation)とは、一言でいうと「会議やミーティングを円滑に進める技法」のことだそうだ。だからファシリテーターは、実際に「会議やミーティングを円滑に進める人」のこと。 そうか。 会議やミーティングを主宰する人にとって「円滑に進める」は必須のテーマだから、会議やミーティングが始まった頃から永遠のテーマだろう。 で。 僕が「ファシリテーション」「ファシリテーター」という言葉を、初めて耳にしたのが大学院の講義だったから、今から10年ほども前の

「まち」というご馳走について

一人の大学生がシャッター通り商店街に、当地の商店会と組んでカフェをオープンしたというから、行ってみたんだけど… そこにはチェーン店のスケール・メリットがない、単店舗のスタバかドトールといったようなキャッシュ・オン・デリバリーなカフェがあるだけだった。 お店と来客の間には「注文」以外の会話なし。細部調整は気にしないマシンで淹れた悲しい珈琲とプラモデルを組み立てるようにつくられたホットドッグ。数回、行ってみたけど、その都度スタッフさんは異なる人だから常連になるのは不可能な店。

まちづくりといえばイベント…か

今の僕は、仮に、そのイベントが成功しても、それで日常のまちを活性化するのは困難だと思っている。 イベントの原義は「(新聞ダネになるような)大事件」。だから広告代理店が人工的に行うものなどは、当初「擬似イベント」といわれた。 つまりね。 イベントは「目立つ非日常」をメイキングしていくもので「日常の賑わい」をつくっていくものではない。日常を丹精しようとするものでもない。やっぱり「描き割り」で即成して、長くて数日で「バラシ」にかけられる「非日常」なんだ。だから、あんまり派手に