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ヨコハマ

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横浜市に18ある行政区のうち、わずか6区しか海岸線を接していないヨコハマ。でも港町のイメージで語られる。そんな港町の港近くにひいばあちゃんから四代150年近く家に生まれた僕のヨコ… もっと読む
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神戸/ヨコハマ

今にして思えば、すでにあの頃からヨコハマは港町に乏しくて 1970年代末から80年代のはじめ 僕はしばしば「神戸」を訪れていた。 神戸には街かどの「発信源」が豊富だった。 古本屋さん、レコード(当時)ショップや雑貨屋さん…など ライブハウスや、今っぽく言えば「クラブ」。 それぞれに個性的な店主がいて、彼らに会うのがご馳走だった。 ヨコハマにも、そういう店が無くはなかったが 神戸は、見事なまでに選択肢が豊富だった。 Barや喫茶店もそうだったし、街かどの食堂や、いまでいう「ま

ヨコハマ哀歌

田村 明は、彼の著作「都市ヨコハマものがたり」 に、当時のヨコハマをこう綴っている。 横浜という街の印象は私にとって決してよくはなかった。終戦直後、戦時中日本に戻っていたがアメリカに帰ることになった親戚を横浜の港で送ったことがあある。街は至るところ米軍に占領されており、戦車や装甲車、トラックや、カマボコ型のプレハブ兵舎であふれている。山下公園にもフェンスが張り巡らされて、日本人は立ち入り禁止(上級将校と家族のための住宅だった:筆写注)。港もほとんどが占領され、囲われたフェン

函館とヨコハマ

横浜市の総人口は372万人ほど(2015年)、市役所の一般会計も1兆9、156億円(令和6年度/2024年度)くらい。 対して函館市は総人口27万人弱(2015年)。市役所の一般会計は1432億円くらい(令和6年度/2024年度)。 この数字だけを見れば函館市は横浜市の10分の一以下の都市ということになる。でも、これは、あくまでも「量」的な比較であって、それ以上でも、それ以下でもない。 五島軒の創業は1879(明治12)年、つまり創業145年。その間、継ぎ足し継ぎ足し、継

賽の河原

開港以来、ヨコハマは20〜30年のスパンで主幹的な地場産業を入れ替えてきた。 最初は生糸であり、超絶技巧な工芸品を輸出する街。その頃にはたくさんの技能職も集積し古物商的な目利きも多かった。でも、この国が「新興国」としてあるステイタスを獲得しはじめる頃には、多くの労働者を集めて京浜工業地帯の一翼を担うようになり、その製品の積み出し港になる。  しかし、関東大震災があって、その後は軍需産業を含んで軍都になり、そういうこともあって空襲で都心部が灰燼に帰す中、戦争に負けた後は進駐軍

ヨコハマ・エレジー

なぜ、イチローさんは神戸のチームで野球を続けているんだろう。 松本隆さんは、なんで神戸に住むことを選んだんだろう。 中島らもさんを産んだのも神戸の街だ。 なんでだろう。なぜヨコハマからは、中島らもさんみたいな人が出てこない。 Mi-Mi-Biみたいな素敵なダンスカンパニーもヨコハマという街からは生まれない。 あ。メリーさん。 メリーさんは人間としての芸術品だが、作品は創らない。あえていえばパフォーマーだ。だが、超芸術なところがあって、本人に作品を創る、創らないの意思は

人口集積力でも経済力でもない

塩竈市にパリの有名なマカロンの店などで10年以上の修業を積んだフランス人パティシエさんが、この地を気に入ってお店を開いた(確かお店の名前は「りんごの木」)。今のヨコハマに、たった一人でも、遠い国のパティシエさんを惹きつける魅力があるだろうか。 塩竈市と横浜市を比べて、財政力とか人口集積とかでは横浜市の方が圧倒的に力がある。でも文化の錬成度や熟成度の点ではどうなんだろう。どちらが洗練されているのか、成熟しているのか、どちらの「街文化」の方がより豊かなのか。もちろん、塩竈市だっ

ヨコハマたそがれ

大都市こそ「よそ者」の天下になるんだろう。テレビや映画などで「東京イメージ」を語ってきた人たちの多くも、高校生までは東京以外の街や町で育ってきた人だ。 だから、彼らが思い描く「東京イメージ」は、東京の生活者が描いたものではない。仮に生活を描いたとしても「東京の生活者はこういう生活をしてるんじゃないかな」っていう「想像」に過ぎない。そして、彼が映画監督なら、俳優さんたちは、それらしくセットされた背景の中で見事に「彼の東京」を演じ切る。 今の東京は、そうしたsceneがレイヤ

1964年のヨコハマ

この映画の加賀まりこさん、もうピカピカです。もちろん「純情ババァ」な加賀さんも素敵ですが、この頃の加賀さんは「敵なし」です。相手役の中尾彬さんも魅力的。加賀まりこさんのパパ役(お父さんという意味ではなく)の加藤武さんもちゃんと「ずるい男」を名演。つまりは「月曜日のユカ」は素敵な映画です。 「月曜日のユカ」は1964年の作品(つまり前の東京オリンピックの年の作品です)。舞台はヨコハマの山手の丘、元町、湾岸の埠頭なんですが、なんとなくリアルです。僕が子どもの頃に歩いていたヨコハ

今は昔の話し

ヨコハマ山手。アーバンデザインな公園が増えた分、返って自然な緑は減ったような気がする。屋敷林を持つお屋敷も激減し、建ぺい率いっぱいの小割りな戸建てやマンションに変化し、つまり、土がない感じ… 昔は「ヨコハマは五月」という言い方があって、それは山手の丘の風と花、緑の盛りを指したものだった。 今日の山手にはそんな感じは微塵もなくて、元町プラザから外人墓地を迂回して丘公園まで、ぬるい感じとアスファルトの照り返し。知らぬ間にインターナショナル(スクール)もアスファルトな感じに増殖

裏横浜に暮らす

例えば野毛に、都橋商店街のビルに、今も息づく闇市から戦後の混乱期までのノスタルジックな風情を求める。でも、あの時代を、あの場所で切り抜けてきたはずの ひいばあちゃんにとっては あのあたりもただのシノギの場所で、彼女からサウダージな話しは聞いたことがない。 ただの生活の場なんだ。 僕にしても、野毛あたりは、高校生の頃、学校をサボってJAZZを聞いていた街だし、その後も「呑む場所」ではあっても「闇市から戦後の混乱期までのノスタルジックな風情」を求めて行くところではなく、そんな

「岡」っていう感じがよく似合う

「港」を景観だけで語り尽くしてしまったとする。つまり遠くから眺める「港の景色」だけを評価するってことだ。 「形骸化(内容や意義を失って、形だけが残った状態)」も甚だしい。涙が出る。 「港」はよそ者にやさしい。居心地を提供する。前歴を問わない。だから、本来は出会わなかった異質な者どおしの「出会い」に恵まれる。chemistryに豊かだ。それで街が面白くなる。 コミュニティの壁が高いタワマンを林立させても仕方がない。管理組合が仕切るコミュニティが「港」の主役になっても、風通し

ある本牧2丁目

ヨコハマ 中華街

どうも、この大桟橋に慣れない。