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誤解されない文章

言葉は誤解される事があります。文章でさえ誤解されるのですから言葉での会話が、説明不足になるのは、当然の事のように思います。

説明は説明すればするほど不足を感じてくるものです。説明を受ける人と行う人の知識の違いでどこまで説明文に含めれば良いものなのか判断に苦しむのです。

長い文章を読む事は、苦痛だと感じる人は多いでしょう。ましてや説明文を読もうと思う人は余程の関心がなければなりません。

関心を持ってもらう文章で説明文が書ければ良いと思うのですが、そのような文章で書いたとしても時代とともに文体も関心ごとも単語の意味も使い方も変化して伝えたい事が伝わらなくなるのが文章です。

なので、古い文章(書物)や録画、録音から得た知識を再構築して伝える仕事はいつの時代でも必要になると思います。

「いつ死んでも良い」という文章は自殺を助長する意味で書いたのではないのですが、その様に捉われかねません。「悔いの無い生き方をしていればいつ死んでも良い」「死は絶対に避ける事はできないのに死ぬ事が怖い。怖いと思ったら死は訪れないのならば怖いと思えば良いが避ける事はできません。死後に不安がなければいつ死んでも良い」「死後は誰でも極楽に行けると信じているからいつ死んでも良い」

良い思いをする事と死ぬ事は次元が違うのです。生き死にを人が制御してはいけないのです。良いと思うのは自分であって他人では無いのです。悪いと思うのも自分で他人の善悪を判断してもその人の善悪と一致するとは限らないのです。

御国の為に、家族の為に、大切な人の為に、神様の為に、仏様の為に、教祖様の為にと死に物狂いで戦い、そして相手を傷つけたり殺したりするのは許される事なのでしょうか?

やらなければやられるからやってしまうのは仕方がない事なのでしょうか?
やられたらやりかえすのは当たり前のことなのでしょうか?

やられたと思うのではなくしていただいたので感謝すると思えないでしょうか?

イヤミを言われたのではなく足りない配慮を教えていただいたと思えないでしょうか?

人が誤解するのは、認識する事柄の差があるからです。その差を無くすための配慮を尽くせば良いのです。

ライターの仕事の面白さがわかってきました。