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初めて振袖を着た日。

遡る事何年前だろう、20歳の春。
「神様がどう思うか、よく考えてちょうだい。」
そんな母の一言で、私は成人式で振袖を着る機会を失った。
母が信仰している、そして私が信仰していた宗教では、独特な地域特有のマイナールールの適用により世の式典を避ける傾向にあった。
式典自体は中学時代いじめられていたこともあり、別に参加しなくてもいいかなぁと思っていたのだが、振袖だけは着たいなぁとぽろりと布教活動中にこぼしたら、同じ宗教内の仲間が、宗教内で年に一度ある特別な式典で、振袖を着せてあげようか?と提案してくれた。
嬉しかった。めちゃくちゃ嬉しかった。
着られないと思ってた一つの夢が叶えられるってこんなにも嬉しいんだって思うくらいはしゃいだ。
5つ下に妹がいるんだけど、その妹にもついでだし着物を着せてあげるよ、とその方は言ってくれて、振袖を一枚、訪問着を一枚持ってきてくれた。何回も時間をとってもらい、あわせがあーだこーだ、帯がどうだ、はしゃぎながら妹とその方と3人でキャッキャと着付けの練習をした。
母は何処と無く意に沿わなそうな顔でそんな私たちを見ていた。

最終の着付けの練習日、母は笑顔で私たちに言った。
「茜ちゃんのそのお着物と、妹ちゃんのお着物、交換すればいいんじゃない?」
一瞬、頭の中にサンドウィッチマンの富澤が降臨した。
「ちょっと何言ってるかわからないですね」
思考停止した私に母は、畳み掛けるようにこう言った。

「妹ちゃんこっちの色の方が似合ってるわよ」
「2人は恵まれてるわねぇ」
「サタンの世の人と違って、20歳で振袖を着るなんて風習にとらわれないで済むんだもの」

結局、その年の式典に、妹は振袖姿で出席した。
私は、普通の訪問着に、あまりにもかわいそうだと一連のやりとりを聞いていた着付けしてくれる方の好意で帯だけ変えてもらって出席した。

悔しかった。
自分が“私はこれが着たい”と我を通せなかったのが悪い。
でも、20年擦り込まれた“母が全て”の私には逆らえなかった。
あんなに喜んでいたのに、伝わっていなかったのが悔しかった。
一生懸命時間を割いてくれた方にも申し訳なかった。

その年の祭典と振袖の思い出は、べったりと落ちないシミのように、心の奥深くに負の思い出として深く深く刻み込まれた。

それから毎年、年を重ねるたびに、振袖姿ではしゃぐ若者を見るたびに、振袖姿をお披露目するために親族の元を訪れたりする若者の姿を見るたびに、心の中の真っ暗な私が、羨望の眼差しを注いでいた。
私は羨ましかったのだ。
“振袖姿”に凝縮された、成人という節目を祝ってもらう若者が。その姿を心から祝福してくれる周りの環境が。貴女が居てくれて、生きてくれて嬉しいよと祝ってくれる家族の存在が。その全てが、狂おしいくらい羨ましくて羨ましくて。



そんな思いを抱えたまま、歳を重ねること数年。
某SNS内で友人が、元二世のために成人式をやってあげられないかなぁと呟いていた。悲しい思いでこれからの社会に出ていく人が1人でも減りますようにと。
素敵な企画だなぁ、友人のその心意気に賛同したいなぁと思い、そっといいねを押した。
しばらくして、友人から連絡が来た。
内容は、成人式イベントの第一弾として私を祝いたいという内容だった。
びっくりした。分相応な話だと思った。とりあえず断った。
だって私はもう20代も折り返してるし、他にもっともっと悲しい思いをした人がいると思ったから。
でも友人は、わたしに言ってくれた。
遠慮するなら怒るわよと。
あなたを祝いたいと思ったんだからと。

それから数回の打ち合わせを重ねて、さまざまな人の協力を経て、振袖を着るイベントはあっという間に当日を迎えた。
当日朝起きて、シャンプーをして、電車に揺られながらも、「夢やろなー」と思っていた。現実味がなかった。

夢やろなぁと頭は思っていても、あれよあれよという間に時間は過ぎて、さらさらとメイクさんの手は私の顔の上を走り、髪の毛はぐるぐると巻かれ、着付けのお姉さんはぐいぐいと帯紐を巻きつけ、気付けば私は振袖を着ていた。

上記は友人がまとめてくれたブログである。
さまざまな方の協力のもと、無事、振袖を着ることができた。

夢みたいな1日だった。
お姫様になったみたいだった。
ふわふわしたまま、1日を過ごした。

ふわふわしたまま1日を過ごして、友人宅に着いて、
振袖を脱がしてもらってもまだふわふわしていた。

友人宅で友人が、美味しいご飯をたくさん振舞ってくれた。
本当に美味しかったのはもちろんなんだけど、
誰かを想って創るご飯ってこんなに温かいんだって思った。


ご飯の後、友人がピアノを弾いてくれた。
曲名は“旅立ちの日に”
友人のピアノを聴きながら、無敵だと思っていたキラキラした青春時代を思い出した。

学生時代の終わり、桜花めく3月の日。
大学に進学する友人、夢を追う友人、みんなキラキラした未来を見据えていた。
私だって同じくらいキラキラしていた。
子どもの頃から信仰していた宗教活動をやっと本格的に行なうんだ、と、野心に燃えていた。
宗教内にはたくさんの仲間がいた。
茜ちゃん、茜ちゃんと私を呼んで慕ってくれる人、子どもの頃からずっと親のように慈しんで育んでくれた人、同世代の熱く燃える仲間たち。
たくさんの糧を持って、無敵状態で次のステップに進めると、信じて疑っていなかった。


数年後、私は心を病んでしまい、終活の一部として宗教を辞めた。
辞めたと同時に、抱いてきた人生の目標も、自分の立場も、プライドも、隣で笑い合っていた友人も、仲間も、家族の絆も、全てを失う事となった。
世界には私1人で、世の中のキラキラしているものの全てが羨ましさを拗らせて疎ましく思った。

旅立ちの日にを聴きながら、そんな人生の分岐点を思い出して、涙が止まらなくなった。
18歳、夢と希望しか胸に詰まっていなかったあの頃の私とはだいぶん掛け離れた人生を歩んでいる私について考えて、あの時無敵だと思っていた私は存外弱くて脆くて、それなのに孤独で丸裸だと思っていた私の周りにはたくさんの温かい人がいてくれていて。
止まらない涙を拭きながら、生きていくのも案外悪くないなと思った。


これから先、生き辛い事も起こるだろう。
苦しい事も多分あるのだろう。


それでも、こうやって心の糧を増やしていく事で、心を強くして乗り越えていけるのだろうなと、そんなふうに、帰りの電車に揺られながらぼんやりと思った。


目に見える形で、そして目に見えない形でこの企画に協力していただいた皆様、本当にありがとうございました。

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