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5歳になる。

5歳になります。
5歳になることができます。

知らぬ人からしたら何のことやらということだろう。
今日、4月20日は私に取って大切な日なのである。

私には、生まれた時から信仰していた宗教があった。
パパ、ママの次に覚えたのは神様の名前だったらしい。
幼少期から布教活動、宗教活動に専念してきた。
神様は、私の全てだった。
いや、正確にいうと、神に仕えている母の顔色が私の全てだった。
母に認められることが、私の存在価値の全てだった。
母の期待に沿うことが、私が生きている意味の全てだった。
そこに自分の意思なんてものは介入していなかった。

ある日を境に、思いが、気持ちがついてこなくなった。
母の期待に添いたい自分と、真の自分が、少しずつ乖離し出した。
毎日毎日死にたくて泣くようになった。
息苦しさで溺れそうになった。

宗教の教えの中で、信者は永遠の命を受けられることになっている。それがとても喜ばしいことだと、宗教内で語り合い、至る所で布教するのだ。
家に帰れば明日が来るのが怖い、明日も生きるのが怖いと泣く私が永遠に生きたいね、ウフフと笑いながら周りと同化して生きていくのに無理があった。みるみるうちにメンタルが崩壊していった。

半年ほどその状況を続けて、メンタルがボロボロになって、楽しい事も楽しいと笑えなくなって、電気もつけない部屋で、ポッカリとした月を見つめて、横たわりながら、ふと思った。


ああ、もう生きてくの辞めよう。


そう思ってからの私は、終活に向けてコツコツと動いていった。もうすぐ楽になれるんだ、解放されるんだと思うと細かい手続きや身辺整理も意欲的に出来た。

宗教内で得ていた特権も、半年かけて一つずつ降りていった。
最後の割り当てられた対談形式の講話を果たして、それで、全てを終わりにした。
「次回の割り当ての課題ですが…」
宗教内の権威者のその声に被せるように私は言った。
「次の課題は必要ないです。もう辞めますので。」
声はきっと震えていた。
ポカンとした顔の権威者を尻目に、くるりと踵を返してその会場を後にした。


4月20日。
春の夜の空は生暖かくて、月がポッカリと浮いていた。

さよなら、私の世界。
さよなら、私の全て。

そのまま帰宅した私は、事前に購入していた縊死用のロープを首に巻いて、首を吊ろうとして、普通にロープの長さと尺を見誤って、一思いに死ぬ事もできず溺れるくらい泣いて泣いて、寝ないまま朝を迎えた。
うっすらと白みはじめた空をぼやけた視界で見ながら、ああ、生きてしまったと絶望したのと同時に、なぜだかわからないけど少しだけ、ほんの少しだけホッとした。


それからも私は、懲りずに何回も何回も死のうとした。
気づけば歩道橋に立っていたり、溺死しようと河川敷に佇んでみたり。
それでも死ねなかったのは、きっと私に意気地がなかったからだ。
そして死ねなかったということは、往々にして、生きていかなければならないという事だ。
神様と母が全ての世界で生きていた私はきっとあの踵を返した日に死んで、同じ日に死に損ねたあの瞬間、神の母のいない世界で生きていく私は産声を上げたのだと思う。


家族の関係も、交友関係のほとんども、常識も、プライドも、ルールも、全てを捨てて1から得なければいけない状況は、お世辞にも楽しい事ばかりではなかった。
何で宗教を辞めてしまったんだろう、メンタルがもう少し強ければ、私がもう少し頑張れば、上手くいったんだろうか。
そんなふうに何度も自問自答した。
自問自答したところで答えなんかでないのだけども。


でもそんな中で私が本当に恵まれていたのは、人の縁だった。
宗教を信仰していたときも、辞めたよと伝えた後も、変わらずいつも通りに接してくれた学生時代の友人達。
ずっと、ずっとそばにいてくれた幼馴染。
第二の母のように気にかけてくれるマネージャーと、優しかったバイト先の職場。
茜さんのそのままがいいんだよと今の私を肯定してくれる、今も闘っている鬱の症状も理解して配慮してくれる今の職場。
そして、Twitterやブログでずっと支えてくれる、気にかけてくれる、気遣ってくれる仲間たち。

この5年間、本当にいろんなことがあって、何回も苦しいことがあったし、生きてるのしんどいなと思った事も何回もあったけど、その反面、生きててよかったなぁと思った場面もたくさんたくさんあった。

その全てに、誰かの優しさが、誰かのホッとするような温もりが、感じられた。

友人の善意で、初めて振袖を着せて頂いた。
お姫様みたいだと小躍りした。

もう死のう、と思っていたところから、生きる方向に舵を切るために、がむしゃらに食いつないでいろんな仕事をした。
その中で、やっぱり誰かのためになりたい、と思った。
これは今までの生育歴も関係しているかもしれないけれど、紛れもなく自分が決めた、はじめての“やりがい”だった。
高校卒業するときにとっていた福祉の資格を使って、なんの所縁か障がい者の方と関わることになった。
障がい者の方はその多くが施設や在宅でその半生を過ごされていることが多い。いわば社会と隔絶された籠の中で生きてきた人達が、時を経ていろいろな十人十色な事情を経て地域で暮らすことになる。そういった方々の社会参画の力添えをする、そんな仕事についた。
生まれてから20数年宗教と母の統制下に置かれていた私は、仕事をするうちに気がついた。ああ、この人達と私は一緒だ。
先輩から言われた言葉がある。
“失敗も大切な経験なんだから、奪っちゃいけないよ”
“今まで全部施設の人や親御さんが決めてきたんだから、決めるのが苦手で当たり前。失敗して当たり前。その失敗した時に、責め立てるんじゃなくて、横に一緒に寄り添って、失敗しちゃったねぇって共感して、次どうしたらいいのかなぁって一緒に考えたらいいだけ。それだけの話。”
その言葉は、今まで母の顔色ばかりを伺って、母の喜ぶ事はなんだろうかといつも物事を選んできた、母の求める完璧をトレスして推察して行ってきた、今やどうやって何を選んでいいのかわからない私にも重ね合わせて刺さった。
そっか。失敗してもいいんだ。
私は私の選択肢、見つけていけばいいんだ。

もっともっと、当事者の方に寄り添っていきたい。
一緒に悩んで、泣いて、笑う瞬間をもっともっと刻んでいきたい。
経験という名の色々な宝を手に入れて、成長したい。
そのためにさまざまな知識を身につけたい。
そのために、介護の世界で1番基礎とされる国家資格を受験して、めちゃめちゃ勉強して、無事に合格した。
学生時代、実は真剣に勉強したことがなかった。
“この世界は滅びる”と教えられていて、それを信じていたから。
全ての知識はいずれ塵になると思っていた。
今となっては過去の自分をぶん殴りたいが、これもまた事実である。
だから実質生まれて初めて真剣に勉強した。
知識を取り入れるってこんなに楽しいんだって胸が躍った。
そしてなにより、明日が来るのが怖くて泣いていた自分が、未来に目を向けて資格を取ろうとする日が来るなんて思わなかった。

頑張った分気持ちの反動の鬱波は必ず来るけれども、荒波の中放り出された筏みたいに上下する事はなくなった。しんどくなる時期も自分でわかるようになってきた。
カウンセリングに通いはじめて、自分を対外的に見ることを学んだ。自分の弱さを受け止めてもらうことで、自分というものを知っていった。

漫画みたいな奇天烈な人生だからこの先全てうまくいくなんて思ってないし思えないけど、あの日死に損ねて見た朝日の向こう側に見える景色がこんなに広くてあたたかだったという事は、全てに絶望していた5年前の私に教えてあげたい。

大丈夫、あなたが世界の全てだと思っていた宗教は、いろんな国や文化の中のたったひとつで、森羅万象、世の中にはいろんな世界が転がっていて、自分の視野はなんてちっぽけで。


大丈夫、全てが害悪だと教えられていた宗教外の人達は人情味豊かであたたかくて、自分に色々な糧を与えてくれる。


大丈夫、大丈夫。


丸裸で飛び出してきた世界で今日、あなたは無事、5歳になる。

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