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彼岸に焦がれながら此岸にしがみつき、そして彼岸を思う。

年の瀬のことを師走というのは言い得て妙なのかもしれない。
諸説によればお坊さんだって東西に走り回るくらい忙しいし、仕事は年末にかけてアホみたいに忙しいし、街並みはなんだか浮き足立っているし、独り身の私なんかは賑わう街並みや幸せそうな人達を見て心が猛烈に寂しくなる。

そんな師走に、人の命の儚さを思わせる事件が立て続けに起きてしまった。
ひとつは、自分の活動圏内で起きた、故意の火災による多くの方が亡くなった事件。
そしてもうひとつは、国民的女優の転落による死亡事件。

前者に関しては、犯人に怒りしか覚えない。
誤解されている方も多いかもしれないけれど、私も初め誤解していたけれど、メンタルクリニック、いわゆる心療内科は犯人のようなけったいな人ばかりが集っているわけではない。

優しすぎて、感性が鋭すぎて、少し心が疲れてしまったり、
生まれつき、又は生育歴などの環境因子において人格が少し“普通”と違うように形成されていたりする人が、
社会に復帰するために、社会で生きていくために、思考の型などを見直して、生きやすいように生きていく方法を学ぶためのところであり、そうであるべきだと思っている。

現に私だって、ちょうど4年前くらいに、躁うつ病が再発してしまい、毎日毎日死にたくて泣いていた頃、通い始めたメンタルクリニックでカウンセリングを勧められ、そこで時に優しく、時にはっきりと思考の型や認知のゆがみを指摘され、回数を重ねるうちに少しずつ前を向けるようになって、今もしんどい時は数あれどそこそこに社会人として一般的な生活を送らせてもらっている。すべてが先生のおかげであるとは言わないが、大部分をささえてくれたのは先生である。ので感謝が尽きない。

だからメンタルクリニックがあんなサイコパスだけを生み出している害悪な病院と思われることはとても心外だけど、残念ながらSNSの中ではそんな批判も散見された。私は声を断固として挙げていきたい。偏見の目で相手を見るのを止めてほしい、罪を犯したのは、裁かれるべきはあくまで個人であると。

あとこれは余談だけど、毎回報道の姿勢にも疑問と怒りを覚えている。犯人の犯行の手段とか、事件に使われたものに対して、明確に言及しすぎじゃない?

どんな形状の物に何を入れてどうしたらビルの1フロアが丸焼けになるのかのデータをそんなにばらまいて何がしたいの?と思うのだ。これに関しては京アニの事件もそうだし、この前の電車の中の火災事件もそうだ。サラダ油だと着火点が高いから引火しにくいなんて情報、わざわざいう必要ありますか?現にその後電車でもう一度模倣犯があって、その時は犯人はペットボトルに引火性の液体を入れていたというじゃない。学習させてどうするのよ。あとペットボトルで手軽に持ち込んで犯行に及べるってデータを残してどうするのよ。
今はまだ日の目を浴びていない模倣犯がそのデータを見てどう思うか。それくらい少し賢い人ならわかるんじゃないのかしら。
どのニュースでも連日取り上げられるたびに、モヤモヤとした怒りが胸の中に巣食っていった。

そしてもう一つは、国民的女優の訃報。

これは誰にも聞いたことがないし、だから推測でしかないんだけれど、一度でも自死を考えたことのある人は、自死かもしれない他人の訃報を聞くと胸が少しざわつくことがあるのではと思っている。
それは一度でも自分が手放そうと思って、でもギリギリのところで手放さなかった、いや手放せなかったものを手放した人への羨望なのか、怒りなのか、自己投影なのか、私にはわからないけれど。
自死を考えたことのある人は、自死かもしれない訃報と周りの声を聞いた時、胸がぐっと苦しくなるのだ。

実はこの記事は、だいぶ前に、タイムリーな時期に書いていた。
その時に投稿できなかったのは、事件への怒りなのか、自死された彼の方への羨望なのか、そして羨望した自分に絶望したからなのか、その全てか。

今、未投稿のこの記事を見て、やっと昇華できたかなと思うので投稿しようと思う。

拝啓 連日流れるテレビの報道を見て絶望した私へ

残虐な殺人事件とその報道への名も知れぬ怒りと同時に、自死に羨望した自分をまだ羨望するのかと絶望した私へ。こちらは時も過ぎ、心も穏やかに年の瀬を迎えようとしています。

怒りは許さなくてもいい、思いは否定しなくてもいい。
そう思ってはいても、いざとなるとなかなか難しい。

いつだったかのカウンセリングで、矛盾する思いは、否定しなくていいとカウンセリングの先生に言われました。それはあなた自身を否定することになってしまうから、と。否定も肯定もしなくていいから、“そういうふうに今の私は思うんだな”と、あるがままを受容だけしてあげましょうと。
その時はなるほどと思いましたが、いざ実際に事象を目の前にすると難しいものですね。

あの時自分は何に絶望したのかと、昨日の仕事終わりから泊まりの仕事に入るまでの空き時間でぼんやりと考えていました。
もちろんまだ死に焦がれているという事実もそうですが、1番は、残虐に殺された命に対しては“許せない”と思ったのに対して、自死に対して“羨ましい”と1ミリでも考えてしまった事が、命に優劣はないのに同じ命に対して相反する考えを持ってしまった自分に対して、怒りが湧いたし絶望したのではないかなと振り返って思います。

これを書いている私も、所謂普通の人よりはいくぶん彼岸寄りに立っているのでしょう。一度死に焦がれてしまったあの思いは否定する必要もないし、否定する必要もないと思います。

ただ今の私は、彼岸へと旅立ちたい思いよりも、ほんの少しだけ、此岸に残した心残りと、私が命を絶ったらきっと後味の悪い思いをさせてしまうであろう心優しい友人達の助けへの感謝が勝るので、彼岸で生きて生きて、もがいて生きていこうと思います。

#命  #自死 

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