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日々よしなしごと~古の空気を吸いに~

お店のお休みに奈良と京都の旅に出た。京都は去年の11月から4回目。
列車もかなり混んできてるし、京都の観光客もずいぶん増えたね。

今回の一番の目的は京都国立博物館で開催中の「茶の湯展」を見に行くことだったが、その前に奈良に行こうと決めた。

ある日本人のアートの巨匠の本を読んでいて、古美術やその所縁の寺院や神社など、古いものや古くからの残っている場所のことが多く書かれていた。アーティストとして自分自身深い学びの源泉がそういうものや場所から得られたものが大きく、現代美術家としてのアートの魂や軸は、実は古美術や古くからの場所でインスパイアされたものだと。

私はアーティストでもないけど、本に出ていてなぜかとても惹かれた石上神宮、當麻寺に行こうと決めたのだ。古くから残っているところの空気を吸ってみたいと思った。

まずは京都に向かう。そこから近鉄に乗り換えて目的地に行くのだが、奈良は新幹線もないしJRよりも私鉄の本数の方が多い。行きたい場所も市をまたいで点在しているので移動にも時間がかかるのが奈良の旅。まあ、それも旅の楽しみだよね・・・

まずは、天理市にある石上神宮に。
駅から徒歩30分。天理教総本部や高校、大学と天理教の門前町の色が濃い昭和な風情の残る商店街を抜けていくと、小高い丘が見える。坂道を上がると、神さびた森の中にある格調の高い楼門がある。入る前に一礼して門をくぐると、さほど大きくはないが美しくシャープな線を描く屋根の拝殿がある。この拝殿は平安時代に創建されたもので国宝。元々本殿はなく、拝殿の後方に、大正時代に本殿が造営されたという。
拝殿の中は一切見れない。楼門の前には摂社(本社の祭神と縁故の深い神をまつった社)がいくつかまとまって建っている。

ここまで歩いてきて、少し休もうとその社の一つの階段に座らせてもらい深呼吸をした。10回くらい深い呼吸を繰り返していたら、胸の苦しさもなくなって落ち着いてきた。清浄な宮と森の空気が癒してくれたのだろう。
裏の方は竹林になっていて山の辺の道がここから始まるらしい。なんだか異界への入り口のようにも見える・・・

ところで、この宮にある池の傍では、守り神と言われる鶏が30羽ほどいて、元気にコケコッコーと鳴き交わすしている。その声を聞きながら、宮を後にし駅に戻った。

途中、商店街で見つけたショーケースにメニューの品々を飾ったレトロな食堂に入り、親子丼とミニうどんでお昼。こういう食堂って本当になくなったなあと思いながら、次の目的地當麻寺への電車時間を気にしつつ完食! 
ああ~おいしかった!

當麻寺へは電車の乗り換え2回。奈良のローカル線から見える景色も、田んぼや住宅のすぐ近くにいくつも古墳や御陵が見えて、古代の遺跡が普通の暮らしの中に共存してるんだなあと気が付いた。奈良のすごさってこういうことかもしれない・・・

當麻寺も駅から徒歩15分。古風な住宅が建ち並ぶ門前通りをまっすぐに行くと突き当りに山門がある。通りの両側の家々は、京都の簾のかかったはんなりとした風情とは違う、黒く塗った板壁と黒々と光る瓦と漆喰の品格のある家が並び、同じ古都と言えど文化が違うんだなあ。

山門をくぐって中に入ると向こうに本堂、両脇に講堂と金堂。左の奥にも大きな建物がありその向こうに三重塔東塔。進んでいくと本堂の左奥にも三重塔西塔が見えた。一番見たいと思ったのがこの三重塔だ。両方とも天平時代のもの。
本堂の中で中将姫が描いたという曼荼羅絵を拝観した後、それぞれの塔の傍に近づいて見上げてみた。東塔は竹林が迫る道の奥にあり、ざわざわと竹が風に揺れる音だけが聞こえる茫々とした中に立っている。
見上げるとがっしりと屋根を支える木組みが力強く連なり、ここで1300年余りもずっと立ち続けていたんだという思いがじわっと胸に迫ってくる。

金堂は鎌倉時代のものだか、中にはなんと白鳳時代の弥勒菩薩像と四天王像(一部鎌倉時代)が安置されている。かつては黄金色に輝いていただろう弥勒菩薩像も、箔はほとんどが剝げ落ちてはいるものの、静かで穏やかな佇まい。菩薩を守る四天王像も日本最古の乾漆像だそうで、異国的な表情や雰囲気でとても美しい。
この方たちは1400年という時間の流れの中、ずっとここにおわし座り立っていたのだ。
そう広くもない、弥勒菩薩像と四天王像が収まる金堂のほの暗い中、ひとりで拝んでいると、気の遠くなるような時間の濃密な気配の中に自分もいることが、とても不思議でそしてありがたい思いになってくる。

よくぞずっと今までここにいて下さいました。ありがとうございました、と
声に出してお参りをした。


石上神宮も當麻寺も、訪れる人はそう多くはないのだけど、門前通りはじめ地元の人たちの大事な神社やお寺であることは、きれいに整備されていることでよくわかる。
この土地の人たちとともに千年以上の間いろんな時代を生き、都とは違うこの鄙びた場所で、戦火の時も災害の時もひっそりとおわし、世の中を見守っておられたのだろう。私がこのふたつの場所に行こうと思ったのも何かのご縁があったのかもしれない。この記憶を大事にしていこうと思う。

京都に戻り、もうひとつの予定の後宿に入った。
かなり歩いたし、居心地の良い宿で夕飯の時少しお酒ものんだりした。
ところが目が開けられないくらいに眠いはずなのに、頭というか意識がずっと覚醒している不思議な感覚でなかなか寝付けなかった。

濃縮された時間の密度の濃い空気の中にいたことで、自分の中の何かが刺激されて、一種の興奮状態になっていたのかなあ・・・

先のアートの巨匠が、宗教を通じて「目に見えない」何かを表現したのがアートの始まりだと言っていた。仏像や仏画が祈りを込めて作られ、社や寺などの建物、その場所そのものも祈りのために造られたものだとしたら、時間と同じくらいに人々の祈りの重さと、人々の心を惹きつけるパワーの大きさに圧倒されたのだと思う。

古いから感動するのではなく
時間の長さに耐える存在の大きさ。
古いものに宿る力ってそういうことだ。

眠れなかったのは、その強さに全身で圧倒されたからだと思い至った。







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