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思考と感情の間で

カウンセリングを再開してから、しばらく経つ。私のカウンセリングの目的は、適応障害を繰り返さないため。自分らしく生きたいの。今のところの課題は、過去から現在までの出来事を思い出して、その時々の私の本音、裏の、奥底の、本当の願望を見つけて受け入れること。そして、過剰に適応してしまう条件を見つけること。

話をしながら驚くのは、つくづく私は「思考」で生きているという点。裏側の「感情」を抑えて理性的な私のみを認識し、それが本来の自分である、そうあるべきと思いこんでいたみたいです。カウンセリング中、過去の出来事を話して「その時どう感じましたか?」と聞かれると、喜怒哀楽をすんなり話せる場面は実は少なく、うまく表現できないことの方が多いことに戸惑っています。客観的に出来事は話せても、感情が出てこない。noteで今まで書いてきた記事は、前者の話せる部分。はて? 私はあのときこのとき、どう「感じて」いたんだっけ?

本来の自分の気持ちを感じること自体がストレスだったのかもしれない。生々しい感情を認知しようとしてこなかった。つまり、解離させていた。感情をストレートに表現してしまうと、ここでは生きていけないのだとでも言うような感さえある。感情に飲み込まれてしまうと、私はお終いだとでも思っているような。

自分の心の動きを認知しない裏側にあるのは、身を守ろうとする心理かな。共同体に属して生き延びなければならない現実には「なにが出てくるかわからない他人との関係性への不安」と「人から見放される恐怖」が、いつも付き纏っている。

私は、できれば1匹で生きていきたいとは思っているけど、現実にはそれが難しいことも分かっている、弱々しい動物です。だから周囲の気配に、いつも敏感になってしまっている。どこでどのように振る舞えば、私のこの矛盾を周りに察知されずに、平穏無事でいられるだろうかと考えているのだろうよ… 上手くやらねば、死んでしまう。必死に戦法を考え、ここはこうする方がよいのだと信じ込み、行動してきた。それは多分、幼稚園に入った頃から徐々に始まっているのかもしれない。

もともと現実主義的な性質で生まれてきたのだとは思う。こども時代でもそんな風だから、大人になって、社会人として集団で生きていくことを当たり前のように選ぶと、そこでは理性的であれ、合理的であれという時間が多くなった。で、思考の方が強くなってしまった。感情に対して、より無自覚になってしまったんだと思う。それが現代社会で生きるということだと。

感情と思考が無自覚に一致している、良い条件下にいられた時期もあった。それはたまたま、運が良かった。外にも内にも適応できていたから。そうでない場所へ連れていかれた時期もあった。それはたまたま、運が悪かった。外側の世界に必死に適応しようと振る舞い、内側の世界は不適応感が膨らんでいった。結果的には病気になる運命。

運の悪いときに引き出しに押し込めて封印してしまった感情。自分の本当の気持ち、弱くて汚くて激しい私を思い出しながら、自分自身で引き出して眼前に晒す。「思う私」がいるのだと、解離させていた心を迎えに行く。そのリハビリが今のカウンセリングなのかなと感じています。

怖い。嫌だ。ひとりにしてくれ。いや、見捨てないでくれ。そう反射的に感じ続けている本来の私を受け入れ、日常的に気づきやすくするところから、自分らしさとは何だろうかと再思考していきたいな。そして、そんなめんどくさい私を抱えて、これから自分らしく生きるための環境づくりも考えていきたいところです。