⭐️心の学び:心の力は宗教とは違う
ぼくは心について考え学び実践することが面白いと思っている。
だからといって他人様に勧めようとは思わないし求めようとも思わない。
「自分が面白いからといって他人も面白いとは限らない」というのは真理だ。
ぼくは「真理」という言葉を使うので、たまに「宗教ですか」と訊かれることがある。真理とは普遍的であることや法則、原理のような意味合いで使っている。神様を求めることはしない。
宗教のおっしゃる真理はどういったものかよくわからないが、「人間は宗教を求めるものだ」というのは全称的ではないが単称的には真理だということは理解しているつもりだ。
ぼくにとって心とは知らないことを知ることで制御していくものだと思っている。
思い込みや期待をできるだけ排除しながら「どう考えるか」によって可能になるのではないかと思っている。
心について述べようとすると、先述したように宗教との関連を想像し、心理学というと「分析されているのか」と思われたりするものだ。
哲学というのは最近ちょっと深入りする必要はないなと思っている。実践的ではないからだ。心の世界の一部だとはわかるが、机上の空論になりがちで、実践よりも記憶に頼りがちなのだ。
そんなに難しいことを覚えなくても心はうまく制御できることがわかっている。
「心も身体も変化し続けている」というのは真理だが、この変化に適応しようとすることが心の制御のことだと言ってもいい。
心は固定しようとするが現実はそれを嫌う。それには「変化する」という対処があるが、それを受け入れられるなら学ぶことは容易いともいえる。
このことは宗教では教えられない。宗教が人間世界の一場面でしかないことがわかってしまうからだ。
よく狂信的だった宗教信者が「宗教に頼っていても何も変わらなかった。自分を変えるしかないことがわかったからやめた」と言うのはそういったことだ。
心の制御は総合的な見方が必要だと思う。そういった意味では心の制御は宗教の仕事ではない。そもそも宗教に頼った理由に遡れば言っている意味がわかるはずだ。
心の制御には現実と思い込みが強く関わっていることを忘れてはならない。
ロマンチックな生き方を夢見てもロマンチックにはならないのだ。
固定された宗教的な生き方をしたからといって人間の「生きる」の見本にはならない。
奇跡だとかの一場面だけを見てそれが真実だと思ってはならない。
おそらくこれは「真理だ」と言っても差し支えない話だと思う。