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眼光炯々 【四天王像 持国天】

キット名   :四天王像 持国天
メーカー   :海洋堂
スケール   :ノンスケール (*1)
初版     :2022年
ボックスアート:中村豪志

下から仰ぎ見る姿は、どこかで拝顔した覚えが…

ボックスアートは、キットの完成写真と組立図の組み合わせ。と思ったら、写真ではなくイラストだった。ばつぐんに上手い絵で、塗装資料としても役に立つ。ただ、キットの完成見本をもとにして描いたようだ。実物を参考に描き起こしてもらえたら、個人的(いにしえのレベル社のボックスアート好き)にはもっとうれしかったかな。

見覚えのあるお顔だ。
モデル (*2) は、興福寺(奈良)中金堂の持国天じこくてんらしく、何回か拝観しているはずだが、その記憶ではなさそうだ。
像容がはっきりと思い浮かぶ持国天といえば、なんといっても東大寺(奈良)戒壇堂の塑像なのだが、印象は大きく異なる。
とにかく知っているお顔なのだが、はて、さて…。

しばらく考えてようやく思い出した。東大寺南大門の金剛力士(仁王)像の吽形うんぎょう像だ。中学時代の修学旅行から数えれば東大寺には数十回と足を運んでいる。南大門をくぐるたびに覗き込んできたのだから、なんとなく覚えていたのだろう。

まぁ、記憶というものはあまりあてにならないもので、実際に比べてみるとそれほどそっくりというわけではなかったのだが…。

*1 ノンスケールとなっているが、(モデルと思われる)興福寺中金堂の持国天の像高が200cmで、キットの全高が16cmだから、スケールは1/12前後というところか。

*2 組立説明書などにモデルと記載されているわけではないが、前から見るとほぼ忠実な再現となっている。後ろ姿の造形はやや異なるものの、モデルと考えて間違いないはず。

ボックスアートと同じように下からやや見上げた塗装済みの完成作品。このお顔になんとなく見覚えが…。
完成作品は塗装したことで表情がやや変わってしまったので、塗装前の状態を示しておく。そう、そう。このお顔に見覚えがあったのだ。
こちらが東大寺大南大門の金剛力士像(吽形像)。2023年5月に撮影。上のキット写真と比べてみると、それほどそっくりというわけではなかったが、額の筋肉や鼻の形、口の結び方はそこそこ似てるでしょ。
ちなみにこちらは、奈良国立博物館に展示されていた金峯山寺(吉野町)仁王門の吽形像。撮影可となっていた(2023年5月撮影)。こうして見ると、同じ吽形像でもお顔の雰囲気はまったく異なっていることがわかる。となれば、東大寺南大門の吽形像と興福寺中金堂の持国天の容貌はよく似ていると言ってもいいのでは…。

ということは、どちらも湛慶(運慶の長男)作?

さて、キットのモデルとなった四天王像は、前述したように興福寺中金堂に安置されているのだが、その来歴がなかなかややこしい。

中金堂は2018年に再建されたばかりで、四天王像はそれまで南円堂に置かれていた。しかも移設の前後に広目天→持国天、持国天→増長天、増長天→広目天と尊名が入れ変わった(多聞天はそのまま)。つまり「中金堂の持国天」は、ちょっと前まで「南円堂の広目天」と呼ばれていたことになる (*3)。ほんとにややこしい。

さらにさらに最近の学説では、この四天王像はもともと北円堂にあった可能性が高いとのこと。つまり、北円堂→南円堂→中金堂と移設されてきたことになる。
興福寺は創建以来、何度も火災に見舞われているから、その度に助け出されてあちこちに避難しているうちに、尊名までごちゃごちゃになってしまったということなのだろうか。

で、もともと北円堂に安置されていたという説 (*4) に従うと、制作は運慶一門で、持国天を担当したのは湛慶たんけい(運慶の長男)であり、一方、東大寺南大門の吽形像の制作にも湛慶が深く関わったという記録が残っているそうだ (*5)。であれば、この二像はともに湛慶作ということになり、似ていても当然と思えるのだが、どうだろう?

*3 興福寺公式Webサイトの「寺宝・文化財」ページには「持国天(旧・広目天)」と記載されている。また、このキットが2022年5月の静岡ホビーショーで発表されたときには「広目天」となっていたことが海洋堂の広報動画などで確認できる。

*4 京都国立博物館に所蔵されている「興福寺曼荼羅図」に鎌倉時代初期の興福寺の伽藍が描かれていて、北円堂の四天王像と図像的に一致するとのことだ。 

*5 「口を開いた阿形あぎょう像が快慶作で、口を閉じた吽形うんぎょう像が運慶作」と説明されるのが一般的だが、研究者によると、運慶が惣大仏師そうだいぶつしとして監督し、大仏師の快慶が阿形像を、同じく大仏師の定覚じょうかく(運慶の弟)と湛慶が吽形像を担当したという文献資料が残っているようだ。運慶としては、阿形像は実力のある快慶に任せっきりにできたが、定覚・湛慶の吽形像はちょっと不安で、直接指導してあれこれ修正させたため運慶の色が強く出たということらしい。

運慶仏だったら、やはり玉眼でしょう

さて、キットの制作だ。
まずは「玉眼にしよう」と考えた。

玉眼ぎょくがんとは、仏像の眼の部分をくり抜き、水晶の薄板に黒く瞳を描いて本物らしい輝きを与える技法。平安時代末に始まり、運慶が活躍した鎌倉時代におおいに流行った。
運慶(というか慶派)の場合、如来や菩薩という主役級のほとけ様に用いることは少なく、どちらかといえば明王みょうおう天部てんぶ(四天王もこのカテゴリー)といった荒ぶるほとけ様に採用していることが多い。

ならば「ぜひ玉眼に!」ということで、最初は直径数ミリのガラス玉を埋め込むつもりだった。しかし全高16cmという小さな像では、効果はあまりなさそうだ。そこで思いついたのがLEDによる電飾だ。

眼を光らせることでウルトラ怪獣のようになってしまうおそれもあったのだが、意を決して眼の部分をくり抜き、透明プラ棒をはめ込んで後ろから光らせてみると、なかなかいい雰囲気だ。「これならいけるぞ!」ということで作業を進めることにした。

それが落とし穴だった…。
なんと、中金堂の四天王像は玉眼ではなく、木を彫り出した彫眼だったのである。「運慶展」(東京国立博物館、2017年)の図録あたりをちゃんと見ておけば気づいたはずなのに、「運慶仏なら玉眼だ!」という想いで先走ってしまったという、なんともうかつな話だ。

まぁ、透明プラ棒で作った眼を白く塗ってしまえば彫眼風に戻すこともできるのだが、せっかく頑張ってLEDの工作をしたのだから、ここはやはり光らせることにした。

気を取り直して運慶仏の玉眼を詳しく調べてみると、瞳の周りを朱色や金色、水色などで縁取っていることがわかった(二重になっている場合もある)。なかでも金剛峯寺(和歌山)の八大童子像の朱色で瞳を縁取った玉眼がなかなか魅力的なので、その表現を取り入れることにした(イメージとしては「鬼滅の刃」の煉獄さんの目かな)。
塗装技術が追いつかないこともあって煉獄さん風の目にはほどとおいのだが、それでも電源を入れれば玉眼風に輝いてくれてうれしい。

LEDの玉眼にしたことで両眼に光が宿った。実物はどちらかといえばドングリまなこで、完成作品はちょっとイケメンすぎるような気もするのだが、まぁ、よしとしよう…。

いわゆる「古色彩色」を目指してみた

このキット、塗装については組立説明書に塗装見本が掲載されていて、素晴らしいの一言しかない。塗装手順の簡単な説明もついていて、それなりの技量があれば見本に近い仕上げも可能となる。

ただ、ひとつ気になる点があった。
自らの技量をかえりみずに言わせてもらえれば、塗装見本はキットの造形を際立たせることに重きをおいているようで、実際の持国天を再現しようとは考えていないことだ。

もちろん、それが悪いはわけではない。
そもそも、このキットはスケールモデルと銘打ってないし、興福寺中金堂の四天王像がモデルとも言っていない。さらに言えば、造立当初は極彩色だったのだから、現状の古色彩色にこだわらなければいけない理由もない。「プラモデルは自由!」なのだから。

とはいえ、せっかくだから学生時代に仏教美術史をかじった経験を少しは生かしたいし、「運慶展」で実物をじっくり拝観したときの印象も可能ならば表現してみたい。いわゆる「古色彩色」を施すことにして、長い歳月を重ねてきた風合いをだしたいと考えた(まぁ、実物が彫眼なのにLEDを仕込んで玉眼風にしようとしているのだから、「実物に忠実に」という方針はもともと破綻しているわけだが、それでもプラモデルは自由だ!)。

実物の持国天は、当初の極彩色はほとんどが退色していて、頭髪の朱色や、お顔の緑、甲冑のかざりの金色などがごく一部にうっすらと残っているだけだ。剥落が多く、あちこちに白や黒の下地と思われる色が露出しているだけでなく、木地そのものがあらわになっている個所もある。

その再現を目指して、「運慶展」の図録や美術雑誌の特集号などを参考に、少しでも実物に近づくように塗装をがんばってみることにした。
ただ、手元にある資料は、正面からとらえた全身像の写真がほとんどであり、アップの写真も少ないので、背面や細部の状況がよくわからない。まぁ、塗装技術をたいして持ち合わせているわけではないので、資料が少ないことを幸いに、それらしく塗り重ねていく。

実は「資料がなければ、本物を見て心に刻め!」ということで、新幹線と近鉄を乗り継いで興福寺にまでのこのこ出かけていったのだが、中金堂のみが拝観中止だった(国宝館や東金堂、それから特別公開中の北円堂は拝観できた。なぜだろう。コロナ禍のせい?)。結局、肝心の持国天にはお会いできずに、残念無念。

2018年に再建落慶したばかりのぴかぴかの興福寺中金堂。美しい! 持国天はここにおわす。柵の中には入れず外から撮影したため、観光客が一人もいない写真が撮れたのだが、それほどうれしくない(せめて扉が開いていれば、持国天を外からちらっと拝顔できるらしいのだが)…。

後ろ姿がとても気になったのだが

もうひとつ、制作にあたって悩んでしまったのが後ろ姿だ。

このキット、前から見ると興福寺中金堂の持国天をほぼ忠実に再現しているのだが、後ろ姿は実物との違いがあれこれある。

この像、風を孕んで腰の両側でなびく天衣てんねが印象的なのだが、実は背面にもくんとかと呼ばれる裾が垂れていて、それがキットでは省略されている。そのため、スカート状の甲冑が見えて、例えば東大寺戒壇堂の四天王像のような造形になっている。
また、甲冑の形状や吊るし方も実物とキットでは異なっている。

その理由は不明だが、もしかしたらキットを設計した際に背面の詳しい造形資料が手に入らなくて、他の像を参考にしたのかもしれない(そのため、興福寺中金堂の四天王像がモデルとはうたっていないのかも)。

で、実物に近づけるには、背中側全体を改造する必要があるのだが、とてもじゃないがキットの繊細なモールドを再現するだけの工作技術はない。残念だが、修正はあきらめるしかないようだ。

実物の持国天の背中側はこんな感じかなぁ。
こちらが完成作品の後ろ姿。上の自作イラストと比べると、天衣の後ろ側の裾がまるごと省略されているなど、だいぶ違っている。本文でも述べたように、どちらかといえば東大寺戒壇堂の増長天に似ている(ちゃんと調べれば、他にもっとよく似ている像があるのかもしれない)。

図録などの写真をよく見ないで作り始めてしまった失敗がもうひとつ。

岩座いわざと呼ばれる台座の部分は、実物は基部も含めて朽木色なのだが、岩座の基部まで写っている写真がなかなか見つからなかったため、たぶん黒漆だったろうと勝手に解釈して黒く塗ってしまったのだ。
あとから台座まで入った写真を見つけたのだが、修正にはいたらず。

ちなみに、四天王像は多くの場合、邪鬼じゃきと呼ばれる小鬼を踏みつけているのだが、中金堂の四天王像はすべて岩座に立っている。
どうやら岩座は後補らしく、もともとは邪鬼を踏みつけていた可能性も考えられるということだ。

あれやこれやで、なんとか完成

そんなことでいろいろあって、当初の目標である「なるべく実物に近づける」からはやや離れてしまったものの、なんとか完成にこぎつけることができた。
以下が、完成写真。

まずは正面から。光る玉眼がこの作品の最大のアピールポイントなんだけど、瞳をもうちょっと大きく描けばよかったかな。でも、こうやって見ると、興福寺のWebサイトの紹介写真になかなか似てると思う(もちろんキットの造形が素晴らしいからなんだけど)。 
向かって左側から見ると、こんな感じ。
後ろから。甲冑や天衣の造形が実物とは異なっている。
向かって右側から。

せっかくだから動画にもしてみた(単に回るだけなんだけど)。

いやー、とにかく仏像のリアルなプラモデルって画期的(その昔、法隆寺夢殿や薬師寺三重塔といった古建築のキットはあったけど、さすがに仏像はなかった)。みんなが大好きな興福寺八部衆(阿修羅!)とか、広隆寺弥勒菩薩(半跏思惟像)なんかも出してもらえるとうれしいぞ。

ちなみに海洋堂からは、この持国天以外に増長天、広目天、多聞天も出ているから、四天王の揃い踏みもさせたいものだ。
いや、いや。その前に作るべきは、造立当初の極彩色に輝く持国天かなぁ。


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