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並行書簡-41

 もう四十一回か。今日は、少し、顕在的なところを書いてみようかと思っているが、どうなるだろうか。私は早速、“顕在”への不信が顕(あらわ)になっているのを目撃している。
 昨日は、四月二十五日だった。パートナーと、茅ヶ崎のとあるカフェに行き、ある人物に会った。“会いに行った”というつもりはないが、その可能性はある。いつも、ここぞというところでふらっとそのカフェに行くと、必ず会う人物だ。彼女は、おーちゃん、という愛称で親しまれている。整体や鍼治療をやり、経営コンサルタントと、心理的な話もする。クライアントの声に含まれる潜在意識の光を言語に翻訳し、それをクライアントと共有する。
 彼女は言った。「どんなに自己分析や内観が得意な人でも、百パーセントの客観というのはなかなか難しいじゃない。だから、他人にそれを聞くのも、いいわよ。どうして、今、このタイミングで出会ったのかとか、お互いに、どういう長所を活かし合ったり、短所を補完し合ったりしたいのか、そういうのも、見えて、おもしろいよ。悩みがあると、マイナスが、どんなによくても、ゼロまでしか行かないけど、悩みがない状態で来てくれれば、プラスに行けるわよ。」
 彼女は、要は、「おもしろいから、おもしろい。」と言った。私はそれを聞いて、「なにそれ、めちゃおもしろい。」と思って、すぐに雄馬に連絡を取り、五月九日に決め、予約を取り付けた。
 私は、雄馬に、いつも、前々から、思っていることがある。それは、「お前、誰?」である。
 本当か? 本当に、そう思っているのか? 私は、わかっているくせにわかっていないことにしている可能性がある。“わざと”という言葉が浮かぶが、どうなんだろうか。
 おーちゃんは、潜在意識の光もそうだが、一般的には“ない”とされている……のだろうか。最近は、「一般的には“ない”とされている」という考え方だけがあって、実際には、そういう人は、実はいないんじゃないかな、とも思いつつある。
 死んだら、全て、おしまいです。生きている間が全てです。今日は、先日亡くなった、おじいちゃんの、お葬式でした。ご遺体を焼いて、遺骨を箱に入れました。帰ってきてから、私は、おじいちゃんに、言いました。おじいちゃん。死んだら、全て、おしまいです。生きている間が全てです。だから、葬式は、全て、茶番です。日本のお盆に限らず、世界中に、太古の昔からある、死者とのアレコレの交流の行事も、全て、茶番です。なぜなら、死んだら、全て、おしまいだからです。だから、私がこうして、おじいちゃんに向かって話しかけているのも、全くの、無意味ですーーなどという話を、私は、聞いたことがない。お言葉を返すようだが、この段落の記述こそが、まるごと茶番である。
 死者に、感謝とか、祈りとか、線香とか、何かしらのものを捧げるのは、死んだら全ておしまいではないからである。当たり前すぎて、私はちょっと悲しい。死者に何かしらのものを捧げたりなんだり、というのは、ものすごく、ものすごおぉーく、一般的なことなのだから、だったら、私が先程うっかり書いてしまった、「一般的には“ない”とされている」は、変である。普通に“ある”からである。私は書いていて、ちょっと泣きそうである。「みんな、なんでこんな簡単なこともわからないんだ?」である。

 私はここから結局“再開”をしているが、実はここまでに書いたものを消して新たに書き直そうとも思っていたがやめて“再開”にすることにした。理由はわからない。
 私はもしかしたら、書くものには情緒を残してはいけない、と思っているのかもしれない。これは、おもしろい発見だ。“発見”はいつだって“おもしろい”ものなのだから、“おもしろい発見”は“お腹が腹痛”である。
 私は、これを書く前から、以下に引用する一節が気になっていた。やはり、顔を出したな。

【引用始め】
 小曽根賢というキャラクターを操るゲーマーの視座を忘れていた私は疲れていた。そういう存在もまぁいるかもなー、というぼんやりとした感触くらいならあったかもしれないが、当時の私には確信がなかった。これがゲームであることは、薄々は感づいている。遊びは真剣にやるものだ。だから当然、人生は「真剣に遊ぶ」の一択だ。(というか、遊ぶ時は必ず真剣なのだから、「真剣に遊ぶ」は「お腹が腹痛」だ。)しかし、なぜかしら、私にはどこか遊びきれていないところがある。てゆうか、なんでオレはこんなに疲れてるんだ? 

 そんな今一つ遊びに徹しきれない私の前に、伊藤雄馬と名乗る、「ゲームの外」を感知する能力に目覚めつつあり、それゆえに「どうせ伝わらない」とやさぐれつつもあった宙ぶらりんの男が現れたのは、「類は友を呼ぶ」というこれもまた先人が与えた世界解釈の一つの実例であったと、今なら思う。
【引用終わり】

 『小説風日記』の第一章からである。私は、先程書いた、雄馬に対する「お前は、誰だ?」から、これがぼんやりと浮かんでいた。

【引用始め】
 私は、雄馬に、いつも、前々から、思っていることがある。それは、「お前、誰?」である。
 本当か? 本当に、そう思っているのか? 私は、わかっているくせにわかっていないことにしている可能性がある。“わざと”という言葉が浮かぶが、どうなんだろうか。
【引用終わり】

 もしかして、みんな、“わざと”なんじゃないか。そういう疑念が、くすぶっているのを感じる。どうも、“演じている”ような気がする。
 なんらかの形で死者を想うことを当たり前にする人たちが、「死んだら全ておしまい」だとか、「ナントカカントカはオカルトだ」とか、そんなの、どう考えたって、あるいは、考えなくたって、おかしいじゃないか。それがおかしいということを、わからないはずがないじゃないか。だから私は、「もしかして、みんな、“わざと”なんじゃないか。」とか、「どうも、“演じている”ような気がする。」とか、思うし、書いてしまわずにはいられないのである。
 どうやら私は、「書いてしまわずにはいられないのである」という文言から察するに、“書いていいことと書いてはいけないことがある”という線引きを持っているようだ。後者の“書いてはいけないこと”を持つ私は、私の中に“ブロック”がある、ということだ。ああ、外したい! 外したぞ! 書いたぞ!
 とはいえ私は、個人攻撃はよくないと思う。書かない。それがたとえ“ブロック”であっても、そうでなくても、知らん。書かないから、書かない。だがしかし、「集団攻撃」、という語は辞書的にはおそらく《集団が対象を攻撃する》という意味なので、鉤括弧を付けました……いや、そこじゃないんだ。聞いてくれ。「集団攻撃」、つまりこの鉤括弧付きの「集団攻撃」は、私が筆一本で集団を「とりゃぁー!」っと攻撃するさまを表す語であるが、それらしい掛け声をつけたせいか、少し滑稽になっているかもしれない。いや、掛け声よりも前に、「私が筆一本で」から、すでに“何か”が始まっている感がある。私はそれに釣られて、「ぁ、ちょっとおもしろいかも。」と思い、その気持ちに誘われるようにして、その直後に「とりゃぁー!」を入れたのだろう。
 では、そのような一連の記述が、“わざと”なのかといえば、それは、大変、微妙である、と私は考えている。

 私はここで約三千字になり、かといって終わる雰囲気でもないので、続けはするが、その前に、休憩しようかな、どうしようかな、と思い始めるかどうかというところで、その“実況中継”を始めてしまっている。という文はそれなりに長いものであるが、私はその文の途中までは“わざと”ではなく、途中から“わざと”の気配を感じ始め、書き終わる頃には《あぁ、これは“わざと”かもしれないな》と、断定はできないが、強めの推量でそれを感じている。

 ここで、「なんか引用しよっかなぁ」と思ったが、特にこれという心当たりがないので、ちょうど一ヶ月前、三月二十六日の、『並行書簡-12』を見てみた。次の一節は、私が塩麹を作る際に、毎回古いものを新しいものに継ぎ足しながら作っており、文字通りの意味での完成を望んでいない、ということを述べた箇所に続くものである。

【引用始め】
 「望んでいない」という表現は、微妙かもしれない。たしかに、私は、記号のいらない、文字通りの意味での、完成を、「望んでいない」。その点では、嘘ではない。つまり、嘘ではないけれども、もっと、核心に迫ることのできる表現が、あるんじゃないかなーー私は、ここまでを読み返してみて、そう思った。
 「望んでいない」よりも、「信じていない」かもしれない。そもそも、完成は、存在しない。存在するとしたら、それは、誰かが、「はい、これにて完成です。」と、決めたのだろう。その宣言によって、完成と呼ばれる状況が発生した。状況そのものが、人間と無関係に、事の始めから、完成なるものであったわけではない。誰かが、「はい、これにて完成です。」と言った。その瞬間に、完成が誕生した。ーー「はじめに、言葉ありき[はじめに、言葉があった]」である。
【引用終わり】

 《塩麹の話が、「はじめに、言葉ありき」の話になるの!?》である。私は、完全に、ではないかもしれないが、でも、まぁまぁ、私は当時の私に、置いていかれているような気がする。頭で考えて書いた文章なら頭ひとつでいつでもどこでも理解できるが、そうでない文章は、文章に流れる頭でない何かに自分自身が反応できる状態になっていないと、社会的な約束事としての“同一人物”であっても、あっさりと置いていかれるものなのかもしれない。

 さぁ、夕飯を食べたぞ。私は、みなぎっている。私は、久しぶりに、まともに自炊した。メニューは、梅肉叩きの炊き込み酢飯と、醤油と酒粕のお吸い物、といっても御飯のおかずになるよう、お吸い物というよりも砂糖不使用で醤油の効いた即席の煮物と言った方がよい。それと、塩麹の漬物と海苔としらすだ。長い。たった三品の名前を列挙し、「即席の煮物」の説明をしただけでこれでは、到底、それぞれの詳細な説明など、できっこない。私は、食べながらだったか、片付けている最中だったかに、そこまでは、すでに考えていた。そして、雄馬が前回、しれっと、写真を載せていたことを思い出した。なんだったかは覚えていなかったので、ここの執筆を始める前に確認した。神保町の喫茶店のナポリタンだった。
 「私も載せようかな。」と思ったような、思っていないような、そんな気持ちになった。その時の記憶が曖昧なので、曖昧な気持ちとして思い出され、書かれているのかもしれないが。まぁ、いい。載せちゃおう。

私の夕飯

 スマホに保存された写真が一つの画面にたくさん、小さく表示され、その中から一枚を選び、ここにそれが、さっきまでよりも大きく表示された。その瞬間に、私は、“たくさんの言葉が一気に出てくる”と、“あまりの光景に絶句する”を、同時に体験した。料理の具体的な説明をするよりも、そういう、私の身に起きたことを報告することの方が、私は“リアル”であるような気がしている。これは、書いてから思ったことだ。
 ハッキリ言って、調子がいい。私はいつもそう思っている気もするが、今日は、なかでも、調子がいい。私の調子がいいというよりも、料理の調子がいい。「どう違うの?」という声もあるだろうが、またまたハッキリ言って、それは、私もわからない。しかしどう考えても、考えなくても、これは調子がいい。説明になってても、なっていなくても、共感が得られても、得られなくても、心からどっちでもいいと思えるので、これは、本当に、調子がいい。
 ちょっと、かわいそうなやつを思い出したので、優しい私が、引用してやろう。

【引用始め】
 死者に、感謝とか、祈りとか、線香とか、何かしらのものを捧げるのは、死んだら全ておしまいではないからである。当たり前すぎて、私はちょっと悲しい。死者に何かしらのものを捧げたりなんだり、というのは、ものすごく、ものすごおぉーく、一般的なことなのだから、だったら、私が先程うっかり書いてしまった、「一般的には“ない”とされている」は、変である。普通に“ある”からである。私は書いていて、ちょっと泣きそうである。「みんな、なんでこんな簡単なこともわからないんだ?」である。
【引用終わり】

 そうかそうか。きっと、ろくなもの食ってないんだろうな。食事の手を抜くとこうなる、という格好の例である。

【引用始め】
 さぁ、夕飯を食べたぞ。私は、みなぎっている。私は、久しぶりに、まともに自炊した。
【引用終わり】

 「久しぶり」の自炊だから、その前に、「泣きそう」になんかなっているのだろう。ざまあ味噌漬け。
 昨夜、最近はすっかり見なくなっていた、ユーチューブという動画サイトを見た。なぜだか、他人の発信に関心がなくなり、なんヶ月も見ていなかったのだが、不意に見る気になり、見た。私は「不意に」というものに、とても従順なのである。
 サイトを開くと、歯科医が食の話をしていた。選挙に出たりしている、かなり有名な人である。私は、この人に、恩がある。会ったことはないが、さまざまな知識を教わった。彼が、米粉と米は違うぞ、と言っていた。私は、ここ数日、家では米粉のドーナツばかり食べて、米を食べていないのを見られたと思い、カーテンの方に意識が、一瞬、向いた。しかし、「いや、そういうことではない。」とすぐに気付いたので、実際に振り向いたりはせず、「意識が、一瞬、向いた」だけで済んだ。

 急かもしれないが、そろそろ、終わろう。ちなみに、ちなんでいなかったらすまないが、ちなみに、彼は、朝メシ昼メシ夜メシをまるごとミキサーにかけて、それを一気飲みしたからって、三食食べたことにはならんだろ。だから、米粉と米は違うんだよーーということを、絶対に、私のこの記述よりも、まともな、わかりやすい、そして多くの人々から「論理的である」という合意を得やすい、誤解の余地のない言い方で、言った。

 しかし、読み返してみると、「私のこの記述」とやらが、そんなに、それを書いた時の私が言うほど、まともでなくて、わかりにくくて、論理的でなくて、誤解の余地のあるものだったのか、わからなくなった。一体、どこまでが“わざと”で、どうなると“わざとじゃない”のかが、私は、わからないのかもしれない。雄馬が来た。

【引用始め】
 空なんだよ、賢さん。ぼくらがいるのは、海でも陸でもなく、こちらでもあちらでもなく、空なんだよ。だから、海にも陸にも、いれるんだよ。好きなところに、好きなだけいれるんだよ。海にいようが、陸にいようが、どちらも勘違いなんだよ。自分はいないんだ。空なんだよ。
【引用終わり】

 いや、だから、前も言ったと思うのだが、こいつの文章は、素敵すぎるのだ。これで終わるのは、本当に、イヤだ。なんか、こう、もっと、こんなにはいい感じじゃない、でも、そう悪くもない、そんな終わり方を、私はしたいーーそう書く筆が、どうも乗らないな、と思い、私は気付いた。私は、そもそも、終わりたいと思っていないのかもしれない。

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