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2024/05/15

 雄馬さんとの、コミュニケーションのすれ違いが、気になります。この一文は、パッと見て、ネガティブな思いの現れであるように感じる。どうなんだろう。書けばわかるだろう。では、書く。
 雄馬さんの、昨日の、文章、大変おもしろく、読ませていただいた。私は、電車の中でそれを読み、笑いをこらえるのが大変で、実際には、ほとんどこらえていなかったと思う。前半は、そうでもない。マトリックスのくだりは、なんだか、難しく感じた。頭を使って読む、というスイッチが入りそうな、でも、そういうスイッチを入れるのを渋っているような、つまりもやもやしながら読んでいたと思う。煮え切らない小曽根賢が先なのか、書いてくれた雄馬さんが煮え切らない状態で書いたのか、わからない。そもそも、雄馬さんは、サッパリした気持ちで書いたのかもしれない。よくわからないが、そういう構図が、今、そう書いたことによって、浮かび上がってきた。こんにちは、構図さん。おもしろいね。私は、「おもしろいね。」の手前に「あなた、」を付けて、「あなた、おもしろいね。」と書こうとしたが、やっぱり、やめて、「あなた、」を入れずに、「おもしろいね。」だけを書いた。そうすると、「あなた」だけがおもしろいのではなく、その、「おもしろい」の主語が限定されないことによって、広がりが感じられて、それこそ、その方が「おもしろい」よな、と思ったからだ。細かく分けて、正確に「これ!」と指摘することが大切な場面も、いくらでもあるだろうが、今は、むしろ、茫漠としていた方が、いいよなーーそういう気分からの行動だったと思う。
 私は、私と雄馬さんとのやりとりにおいても、同じか、似ている現象が、起きている気がしている。私はハナからそこに繋げるつもりで、一つの段落としては随分と長い、この一つ前の段落を書いたわけではなく、書かれたものを読み返したら、そうなっていた。「無意識って、そういうもんでしょ?」という、このセリフを、「雄馬さんの前回の文章から、そう教わった」というつもりで書いたつもりだったが、なんだか、私自身の言葉にも思える。“賢さんが無意識的にどーのこーの”とか、“雄馬さんは、無意識のうちにナンタラカンタラ”ということを、そりゃあ、言葉の上では言えるけれども、なんだか、よくよく考えてみると、あるいは、ヘタに“考える”なんてものをせずに、よい意味で、素朴に、素朴に、素朴になってみると、“無意識”なるものに、“誰々さんの”という境界線が、あるのかどうか、どうも、疑わしくなる。厳密な議論は、あえて避けるが(私は、理屈が勝つのが嫌いだ。)、なんだか、素朴な実感として、広大な、茫漠とした、“無意識”と呼ばれている、輪郭があるのかどうかもわからない何かを、私や雄馬さんも含めて、みんなで、“これはオレの無意識”とか、“あれはあなたの無意識ね”とか、そういうことを、やっている気が、しなくもない。私は、どうしても、「しなくもない」という程度に、とどめたい。私は、固定的な結論が怖い。かといって、震えたり、泣いちゃったりするわけではないので、この「怖い」は、比喩だったのかもしれない。「かもしれない」とかじゃなくて、あんた、ハッキリしなさいよ、という意見の方が、もし、いらっしゃれば、全体を、よく、お読みになってほしい。私は、おそろしく、ハッキリと書いていると思う。それで、誰かが、「なるほどな。」と思ったとする。なぜ、そう思ったのか。誰のおかげで、そう思ったのか。間違いなく、「ハッキリしなさいよ」と指摘してくださった方のおかげだろう。私は、どうも、人生の、場面場面に応じて、その場に立ち会った全員で、役割分担をして、さまざまな言葉を交わし、思いを察し、あるいは察しなかったり、ぶつかったり、すれ違ったりしながら、それぞれの役割を演じて、みなで、ものすごぉーく大がかりな芝居をしているような気がしてならない。「芝居」に、嘘とか、やらせとか、そういうニュアンスを込めたつもりがないことを、ここだけは、珍しく、ハッキリと、断言する。

 雄馬さんとのコミュニケーションのすれ違いについて書きたかったのですが、本当に、それがやりたかったのか、自信が、なくなるわけではないですが、減りは、します。前回の、雄馬さんの、言葉を、引用しましょう。

【引用始め】
おーちゃんのセッションを受けた時の描写で、ひと段落のうち、カフェに2回到着してるけど、これはどういうことだ、分析してほしい、と注文をもらっていたのだけど、昨日の賢さんのnoteで「時間に無頓着なのはよくあることか」と自己解決したっぽいのだけど、補足ってことで、思いついたことを書いてみるね。
【引用終わり】

 私が、この中で、特に気になったのは、以下のところだ。

【引用始め】
昨日の賢さんのnoteで「時間に無頓着なのはよくあることか」と自己解決したっぽいのだけど
【引用終わり】

 「“自己解決”なんかどうでもいい、ということが、なんで、この人は、わからないんだ!?」である。
 私は、雄馬さんに、「あなたの作ったカレーが食べたいから、作って。」と依頼した。雄馬さんが作っている間に、私は、私なりに、“賢カレー”を作った。しかし、それは、あくまでも、“賢カレー”であって、“雄馬カレー”ではない。“賢カレー”をどれだけ作ろうが、食べようが、私の、「“雄馬カレー”が食べたい」という思いは、満たされない。それどころか、食べれば食べるほど、「これは“雄馬カレー”じゃない!」という思いが募り、むしろ寂しくなることも、あるかもしれない。私は、「自己解決したっぽい」を読んで、「あぁ、この人は、なんにもわかってない。」と思い、うなだれた。「どうして、そこまで、言葉にしなくちゃ、いけないの?」である。ケラケラケラ。しまった。笑ってしまった。マジメにやるからこそおもしろい、というタイプの語りであったにもかかわらず、つい、笑ってしまい、それを書いた。これでは、先程の、「芝居」についての私の熱弁が、揺らいでしまうかもしれない。しかし、さっきは、本当に、真剣に、思って、書いていたのだ。「熱弁」を訂正する気は、今も、ない。微塵もない。“真剣に書きました”という気持ちは、変わりません。しかし、カレーのくだりは、ふざけたかもしれません。内容に、真実を入れながら、冗談も入れ、それを、まさに、カレーを作るように、混ぜ混ぜしていたかもしれません。あるいは、“真実”という内容を、“冗談”という形式で記述したのかもしれません。

 私は直前の段落を書き終え、急激に腹が減り、夕飯を食べ、充実を回復し、ここから書き始めている。チャーハンを作りながら、食べながら、そして、特に、片付けながら、つまり、執筆再開の時が近づくにつれ、あぁ、どういう気持ちなんだろう。「執筆再開の時が近づくにつれ、」どのような気持ちの変遷があったのかを書こうとしたが、言葉が、出なかった。片付けなりなんなりをしている最中に、何かは、絶対に、あった。あったから、それを、今、もしくはさっき、書こうとしたのだ。しかし、「言葉が、出なかった」。もう、ない気がする。「あった」という過去形でしか存在しない、という、そんな考えが、今は、泳いでいる。
 私は三日前から、昨日にかけて、久しぶりに、『小説風日記』を通しで読み直した。修正したい箇所が、たくさんあった。細かいテニヲハのことではなく、内容として、明らかに余分とか、しつこいと思われるところが、いくつもあった。それも含めて、私はおもしろいとか、興味深いとか、思った。
 その小説を書き始めたのは、たしか、今年の一月の終わり頃だっただろうか。書き終えたのは、三月の末だった。こちらは、間違いない。『並行書簡』で、そのあたりの日に、「昨日の夜、書き終えたぜぃ」ということを書いた覚えがある。もう、二ヶ月近く経つのか。早いのか、遅いのか、どう判断したらいいのか、私には全くわからないが、興味本位で、引用してみたい。お付き合いいただけると、嬉しいです。
 見てみたら、三月十七日、十六時過ぎの、第五回でした。第一回から四回までは、雄馬さんが書いていましたから、私が書いた初回です。では。

【引用始め】
 今日は8時過ぎくらいに起きたのかな。めんどくさ。思い出すの(笑)。小説をとりま書き終えた。昨日の夜だったかな。だから「(笑)」が使える! やったー!! 「😆」も使えるかな(笑)。自分で決めた縛りで自分で苦し、じゃなくて、楽しんでたんやね(笑)。
 いま、15時39分、少し、頭痛い。書いてないから、書くスイッチみたいなのが切れて、それでかなぁと思って書き始めたら、少し落ち着いてるわ。「行き場を失う」みたいなことすかね。ちゃうかな。強烈な違和感も、強烈なしっくり感も、どっちもない。書いた感触の話ね。さっき今日初めてのメシを食ったから、それまで空腹でくらくらしてただけかもよ。オレ。
 第三章の文体で書くと、オレがなに考えてるかすげーよくわかるから、とりま書いてみた。え、やだ、なんか、エンディングっぽい(笑)。「ああ、書いていたいんですね。」とまあ、こんな具合に、「オレがなに考えてるかすげーよくわかる」わけです(笑)、って、それを説明したかったのね、オレ。てな具合に、「オレがなに考えてるか――」…終わんねーwwwwww🤣🤣🤣

 終わりましょっか。と書いて思い出す(笑)。

 今ね、雄馬がね、「オレのターンだ!」っつって、書いてます。並行書簡かもしれないし、そうじゃないかもしれないし。両方すね。あー、暇。
 そうか、オレは暇なのに「暇だ!」で自分を満たさずに、書き終わっちゃったよ、書き終わっちゃったよ、っつって、「書き終えた」という過去を引きずってたから、頭が痛い、つまり、「ちゃうちゃう、そっちちゃうよ」を受け取れてたのかも、じゃなくて、受け取ってたんだな。だって、今全然痛くねえもん(笑)。

 橋本治さんが、『「わからない」という方法』という本をお書きになったことがあります。2001年くらいの出版だったかなあ。オレが読んだのは、2014年か、2015年か、そんくらい。教員になって最初の職場で、辞めれば済む話だから自殺する必要ない、って思いながら(重いながら、笑)働いてた、ってたしか第一章で書いた気がする、あの頃。
 わからない=分離してないから、書く。書くと分離される。分かれる。つまり、わかる。ちゅうわけで、私は、わからないから書くのである。
 さて、ここで問題です。一つ上の段落は、小曽根賢さんの言葉でしょうか。橋本治さんの言葉でしょうか。
 答えは、口に出さないでね。書くのもしないでね。心の中にしまっておいてね。いずれ、忘れます。てか、スマホ置いた時にはもう忘れてんだろ(笑)←読者に向かってそれはダメwwww

 忘れた時のあなたそのものが、「答え」なんじゃねえかなぁー、違うかなぁー、、、あぁ、これでまた次の小説書けそうだ🙌(笑)

 オチかなと思ったけど、読み返すと書けるのよねえー(笑)。しかしまあ「(笑)」があると楽だ。だって、オレ書いててすげー楽しくて、ほぼほぼ笑いながら書いてるから(笑)、「(笑)」が使えない縛りは、ちょっと尋常じゃないわけよ。小説だったらたぶん、「ちょっと尋常じゃない」とかも、さすがに言えんよね。「ちょっと」かつ「尋常じゃない」。いやいやいや、お兄さん、「今日は35℃もあって、カンカン照りで風もなくて、寒いですねー」みたいなこと言ってんぞ? でも、言われるまで気にならなかった人も多いんじゃないかな? 「ちょっと尋常じゃないわけよ。」という言い方で、私の言いたいこと、普通に伝わってたよね? あれえー、なんでかなぁ、なんでかなぁ、あなた、言語を通じて言語以外のもの、受け取ってんじゃねえかなあ(笑)。

 受け取ってるに決まってんだよ😙💕
【引用終わり】

 区切りが判然としないので、全文を写してしまった。しかも、ちょっと、感動と言ったらオオゲサかもしれないが、ちょっと、心が動いてしまった。
 実は、私が『小説風日記』を久しぶりに読み直して感じたのも、本質的にはこれと同じだと、今、気付いた。それで私は、「あぁ、丸ごと引用してよかった。」と思った。引用の長さも気になっていたが、その前の、「興味本位で」読者を付き合わせるのって、どうなのかな、という、後ろめたさのようなものも、正直言って、あった。しかし、そういえば、それを取り下げるという発想もなく、後ろめたいなら後ろめたいで、その「後ろめたい」と共に書く、というのが、どうやら、私にとっての“普通”であったようだ。まさに、“書くとわかる”という現象が、今も起こった。二ヶ月前に、自分でそう書いておきながら、私は、今、発見した。「いや、それを言うなら“再”発見でしょ。」と言われ、わざわざその人に反論するわけではないのだが、気持ちといいますか、それこそ、先程も申しました、「素朴な実感として」は、“再”の付かない、“発見”の方が、馴染みます。私は、どう考えても、二ヶ月前から、今日にかけて、絶対に、生きていましたが、しかし、それもまた、「解釈次第かもしれないな。」と、なんにでも言えるようなことを言って、結局、ケムに巻いてしまうことになるかもしれません。

 雄馬さんに、前回の、具体的な感想を伝えたいと思い、改めて、今、読んできました。おしまいに近い、以下の四つの段落が印象的であり、個人的に、とても参考になりました。先程に続き、長めの引用で恐縮ですが、読者のみなさんにも、ぜひとも、ご参加いただきたいと、存じます。

【引用始め】
冒頭で、カフェに到着したぼくらの様子が描かれている。このまま「妊娠」の話になっても構わない。でも、それだけでは満足できなかった。この日に集まったぼくらの無意識の「選択」を理解するためには、カフェに到着するまでの車中での会話も必要だと気づいた。

それは、「カフェに到着した」と書かれてはじめて感じられる不足感、取りこぼした感によって理解させられる。多くの場合、人はこれを推敲によって解決する。つまり、時間軸を揃えるために、段落の初めを駅でのシーンに書き換える。

しかし、賢さんはそれをしない。不足感を感じさせる役割を担った「カフェに到着した」はそのままに、その不足が何かを語り始める。自分の内的プロセスを変質させずに筆を進める。

セッション後に、おーちゃんは賢さんに向かって「素っ裸なんだもん」と言った。ぼくも同じことをここで言わされるハメになる。あんた、素っ裸なんだわ。マトリックスで主人公がオラクルにやってもらうことを、つまり無意識の「選択」がもうなされていることに気づくことを、賢さんは書くことによってひとりでやっている。素っ裸から、服を着て、服を脱いで、素っ裸にら戻るプロセスを、ひとりでやってるのを見せられて、「俺が何やってるか教えてよ!」とぼくは言われているので、「ええと、服を着て脱いでました、はい」と言うしかない。「逆裸の王様」をやらされている気分だ。何のプレイなんだよ、これは。
【引用終わり】

 「何のプレイ」なのかを、マジメに考察するわけには、いきませんね。しませんので、ご安心ください。
 私は、三つめの段落のうちの、《不足感を感じさせる役割を担った「カフェに到着した」はそのままに、その不足が何かを語り始める。自分の内的プロセスを変質させずに筆を進める。》を読み、うなりました。「おお、そういうことか。」であり、「あー、やってるわ!」である。
 私は夕飯後に書き始めてすぐに、「チャーハン」という名詞を持ち出した。書く直前か、あるいは書きながらだったか、「べつに、“チャーハン”かどうかは、どうでもよくね?」という気持ちも、あった気がしたような気がしていたが、こうしてそれを書いていると、最初からそんなものはなかったような気もしてきた。そういうのを、“普通”は、「推敲によって解決する」、ということなのだろう。よしよし、わかってきた。私は、それをしない。なぜなら、後付けさせていただくが、私は、《取り下げるという発想もなく、後ろめたいなら後ろめたいで、その「後ろめたい」と共に書く、というのが、どうやら、私にとっての“普通”であったようだ》ということを、雄馬さんの文章を、それを書く前の段階で、すでに何度も読んでいたにもかかわらず、すっかり忘れて、書いている最中に思い出しもせずに、そういうことを書いているような人だからだ。私も、「何のプレイ」をしているのか、わからなくなってきた、と書いている最中に、わかり始めてきた気にもなっているが、そーゆーのも、いつまで続くか、わかったもんじゃねえな、とも、実は思っている。
 さて、そろそろ、雄馬さんに、次の“雄馬カレー”のリクエストをさせていただこう。

【引用始め】
セッション後に、おーちゃんは賢さんに向かって「素っ裸なんだもん」と言った。
【引用終わり】

 私は、全く、覚えていない。聞いていなかった可能性もある。おーちゃんが、どのような流れでこれを言ったのか。あるいは、私の、どのような言動や、行動から、その発言をしたのか。雄馬さんは、雄馬さんであって、おーちゃんではないのは、百も承知だ。だから、いいんだ。私は、伊藤雄馬というフィルターを通って出てきたカレーが食べたいんだ。食わせろ。がぶ。
 ぁ、そうそう。「がぶ。」をオチにして終わる気でいたが、一つ、マジメな事務連絡がある。いや、私はいつもマジメなので、そういう言い方や書き方は、やめてほしい。では、段落を変えて、もう一度。
 書くにあたって、セッションの具体的な内容を書く必要がある場合は、少なくとも、私の発言は、どれを書いてくれても構わない。ほとんど覚えていないが、公表されて恥ずかしいことは、何も言っていないと思う。書かなくても、もちろん、構わない。おまかせです。
 では、読者のみなさん、最後までお読みいただき、誠に、ありがとうございました。次回は、伊藤雄馬特製の、“おまかせ雄馬カレー”で、お送りいたします。いや、“雄馬におまかせ”の方が、タイトルとして、見栄えがしますね。たぶん、相当な、長文です。

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